『ごめんな……母さんを守れなくて』 少年の父親はそう言って、項垂れた顔を手で覆った。 彼の指の間から落ちる雫と、部屋に木霊する嗚咽に戸惑い、少年は隣にいる兄弟を見る。同じタイミングでこちらを見た兄弟も、どうしようもなく困った顔をしていた。 幼い彼らには、自分の置かれた状況はまだ理解できなかった。 ただ、心臓がやけに緊張して、どこか現実感のないこの空間の中で、黙っているしかできなかった。 鴉から告げられた内容に、琥珀は自分のお腹にそっと手をあてる。目を数回瞬かせて、彼女はじっと自分の体を見下ろした。 診察室で対面していた鴉が、カルテに書きながら言葉を続けた。 「最近体調悪いって言ってたでしょー? 調べたら、ビンゴ! 今丁度2ヶ月くらいかな?」 「ほ、ほほほ本当ですか!? …うわああ!凄い、凄い!!」 にっこり笑っていった鴉の言葉に、付き添いの花梨が悲鳴を上げた。 「おめでとうございます! よかったですね、琥珀さまっ!」 「…………あかちゃん……?」 飛び跳ねんばかりの花梨とは裏腹に、琥珀は座ったまま、まだぽかんとした表情。 その様子になにかを感じた鴉は、彼女の額を人差し指でつつきながら、眉間にしわを寄せた。 「…………、まさか、琥珀ちゃん子どもがキャベツ畑から生まれるってまだ信じてるわけじゃ…」 「……だいじょうぶ。それは……知ってる、けど」 すでに少女から女性へと成長した琥珀は、語尾を弱めながら顔を伏せる。未だに美しいというよりは年相応に愛らしい風貌の彼女を見ながら、さらに鴉が言った。 「……………まさか、間男とか…」 ヒィ、と小さく悲鳴を上げた花梨を見上げて、琥珀は思い切り首を横に振った。 「違うの、そうじゃなくて…」 「じゃあ、どうしてそう浮かない顔してるの」 鴉としては無邪気に喜んで、疾風のところに報告にいくかなと思っていた。 なにをそんなに思い詰めているのか。いぶかしんだ鴉と花梨の前で琥珀が立ち上がった。 「――――――私…っ、あの、家出…っする!」 真っ青な顔の琥珀は、予想の遥か斜め上を飛んでいく言葉を叫ぶと、回れ右をして走り出した。 「花梨、止めて!!」 さすがに、付き合いが長いので固まった時間はコンマ数秒ですんだ。彼女が診察室の扉を開ける前に、素早く動いた花梨が退路を塞ぐ。 バン!と扉に手を置いた花梨と、腕を組んだ鴉が琥珀を睨む。 「琥珀さま、さすがに私でも怒りますよ…?」 「同感ね。 まったく…走って転んだらどうする気?」 うんうんと頷く花梨。 二人に挟まれた琥珀は軽く震えつつ、小さく呟いた。 「家出………」 「そうですね…理由をしっかり話してくれるなら考えましょう」 首を振った花梨に、あーとかうーとか、言葉にならない呟く琥珀を見ながら、鴉は溜息をついた。そして、首を掻きながら、机の上に置いてある内線の受話器を取った。 「とりあえず当人呼ぶわね」 「…ダメっ」 振り向いた琥珀が叫ぶ。 いつになく必死な表情の琥珀の言葉に、鴉は受話器を耳に当てたまま首を傾げる。 「そんなに不安? 赤ちゃんが出来たなんて、喜ばしいことじゃない」 静かに紡がれた言葉に、琥珀は視線をそらす。そして腹部の服を掴んで、ぎゅっと目を瞑った。 「…………………でも……、もし嫌な顔されたら…、私…」 ゴトン、ガタッ 琥珀が言ったとたん、受話器の向こうからけたたましい音が聞こえた。 怪訝な表情で彼女が顔を上げると、鴉は受話器の向こうにむかって話し出した。 「と、いうわけで、十秒以内にこっちに来てくださいね? 疾風さま」 琥珀を見ながらにっこり笑って言った鴉に、受話器から呆れたような声が返ってくる。 彼の地声が大きいため、少し離れた二人のところまではっきりと聞こえた。 『受話器放り出して飛んでいったぞ。 どした?』 「あらそーぉ? まぁあんたも来たら説明してあげるわ」 ほほほ、と内線の向こうにいる眼竜に笑って、鴉は琥珀を見た。 「………………――――――――――――っ!!?」 状況を把握した琥珀が、青ざめた表情でパクパクと口を動かす。肩を竦めた鴉はその視線から目を逸らして受話器を置いた。 「誰かさん用に、疾風さまの仕事場まで直通の電話なの。 ごめんね、私が言うのはルール違反だけど……」 鴉が机に後ろ手を置いて凭れた時、診察室の扉が開かれた。ちなみにドア付近にいた琥珀と花梨が飛び上がるくらいの勢いだ。 「……まあ、主治医の特権ということで」 息を切らせて現れた疾風が、鴉に詰め寄った。 「…今、なんだって?」 「本人から聞いてください」 手で指し示す鴉につられて、疾風が琥珀を見た。 「あ、ああ、あの……」 厳しい表情のまま、視線に射すくめられた琥珀は、明らかに怯えていた。咄嗟に花梨が彼女を背後にかばった。 それを見て、疾風はまだ乱れていた呼吸を整える。そして、軽く肩を掴んで花梨を下がらせて、琥珀の顔を覗き込んだ。 「琥珀?」 視線を下に彷徨わせている彼女の名前をゆっくりと呼ぶ。 そのまま時計の長い針が一回りするくらいの時間が過ぎてから、琥珀は俯いたまま小さく言葉を零した。 「……………あの、ね………あかちゃん……できた、の」 一度話し出せば、言葉は次々出てきた。 琥珀はお腹の前で手を組んで、息を吸った。 「……ダメって言われても、私、産んで」 結局、最後まで琥珀が話すことはできなかった。 目の前にいた疾風が存外強い力で彼女を引き寄せ、肩口に顔を埋めたからだ。 「疾風さん…?」 名前を呼んでも、疾風はそのまま体を動かさない。 身動きがとれない状態に、困って琥珀が周りを見回す。しかしいつの間にか診察室には誰もいなくなっていた。 二人きりでシンとなった部屋。 けれど、温かい体温に包まれているうちに、先程までの不安感は嘘みたいになくなっていた。 悪い癖。 自分だけで不安になって、また早とちりをしてしまった。 「……私、お母さんになりたいな」 今の素直な気持ちを伝えたが、応える声はなかった。 ただ、背中に回された手に痛いくらい力が入ったのを感じて、琥珀はそっと目を閉じた。 |