※恋人になってすぐくらいです。 その朝、琥珀は珍しく疾風に起こされて目が覚めた。 「………あれ?」 「おはよう。 ご飯食べに行くぞ」 すでに着替え終わっていた疾風が、ぼうっとしている琥珀の髪を撫でる。いつもは早めに出るので顔を合わせることのない相手を見て、首を傾げた琥珀に疾風は笑った。 「今日は遅番なんだ」 聞かなかったか? と続けた言葉に、琥珀は首を振った。 「だろうな」 軽く息を吐いた疾風に、琥珀が小さくなる。その彼女をじっと見て、疾風は綺麗な糖蜜色の髪を両手で軽くかき混ぜた。 「折角、ゆっくり夜を過ごせるかと思ったのに、だーれかさんは先に寝てるし」 髪ごと頬を両手で包まれて、少しだけ上を向かされる。じっと藍色の瞳が覗き込んだ。 その目に映る自分の顔が、みるみる平常心を無くしていくのが見えた。 「う、えと……そのっ、ご」 「…というのは冗談で」 「へ…?」 「疲れ切ってたから、ベッドと琥珀見た瞬間、意識飛んだ。 そのまま寝こけて、寝坊だ」 「………うん」 情けないことに、話にいまいちついて行けていないので、頷くだけにする。ちらりと時計を確認すると、十時を過ぎたところだった。 「で、朝は休みにしたから、一緒にご飯でも食べようかと思って。どう?」 「…うんっ」 そう話を閉じた疾風に、琥珀も大きく頷く。仕事が忙しくてなかなか顔を合わせることも少なかったので、単純に一緒にいられるのが嬉しい。 自然と笑顔になった琥珀に笑い返して、疾風がベッドから立ち上がった。 「じゃあ急いで顔洗ってこい。 着替えは手伝う」 ふわりとパジャマの裾を翻して、琥珀は洗面所に急いだ。 今日は週に一度ある、上階の掃除の日だったらしい。 着替えが終わった琥珀が疾風と一緒に部屋を出ると、制服を着た掃除係がパタパタとバケツを持って走り去っていくのが見えた。 その他にもあちらこちらに、仕事をしている姿がある。 彼らの傍を通った時に疾風が軽く挨拶するのを見て、琥珀もぺこりと頭を下げた。行くぞと声をかけられて、その後ろに急いで続く。 「………あれ、……ねぇ……」 「うん、………って。…でね……」 後ろから、囁き声が追いかけてきた。振り向くと、こちらを見ていた人たちが、そそくさと背を向けた。 ああ、今のは自分のことを話していたのか、と気づいて、琥珀はひやりと背筋が凍った。 人の視線は、怖い。 「……気にすんな……って言っても、無理か。ごめんな」 階段をいくらか下りていた疾風が、振り返って呟く。まだ階段の入り口にいた琥珀は、その言葉に首を振った。 見上げる疾風が、辛そうに顔を歪めているから。 疾風の隣にいるためなら、なんだって耐えられる。ただ、慣れていないだけだ。そう自分に言い聞かせた。 「とりあえず、今なんか言ってた奴らはきつくお灸を据えるつもりだけど」 爽やかな笑顔で言う疾風に、琥珀はもう一度、さっきよりも必死で首を振った。 その様子を見て苦笑した疾風の顔が、ふと、真顔になった。 「誰だ」 琥珀の方を見ながら、鋭く声を飛ばす。射すくめられて、どうしたのか琥珀が混乱していると。 すぐ後ろで、誰かが舌打ちするのが聞こえた。 振り返る前に、琥珀の背中に誰かの手がつく。 ぐっ、と、階段の下に向けて、その手から強い力が加えられた。 「――――――っや、ぁ」 ぶつかった、などというものではない。落とすための明確な意思をもったそれに、逆らうこともできずに琥珀の足は、階段から離れた。 落ちる恐怖に、反射的に手すりを掴もうと手を伸ばしたが、間に合わない。 琥珀に出来た抵抗はそこまでだった。 「琥珀!」 「っ……」 けれど、ぶつかったのは覚悟した硬い階段ではなく、温かい体。 思わず瞑っていた目を開けると、疾風の顔がすぐ傍にあった。手を伸ばして咄嗟に抱きかかえてくれたらしい。 恐ろしいくらい静かな階段の空間に、手すりを掴んでいる疾風の左腕から、ギシ、という音が響いた。それと同時に疾風が顔を顰める。 当然だ。本当なら下まで放り出されるくらいの体を受け止めた上、二人分の体重がかかっているのだから。 「くそったれ…っ!」 疾風の言葉に被さるように、上から陶器を割る鋭い音が聞こえた。 「な、に…っ」 誰かが階段を駆け下りて来る音。 恐怖で体が竦む。疾風の腕の中でも、震えが止まらなかった。 「目、瞑ってろよ」 琥珀の耳に低く囁いて、疾風はその華奢な体に回している腕に、力を入れた。 そして、躊躇なく手すりを離した。 「――――――っきゃ、…っ」 階段から半分滑りかけているのを左手一本で支えていたため、二人揃って落ちた。 まだ、階段はゆうに十数段はある。初めの浮遊感に琥珀は悲鳴を上げたが、すぐに口を噤んでぎゅっと疾風の服にしがみついた。 そして、ある事実に気づいて泣きそうになる。 体はどこも痛くない。階段を落ちている振動はあるのに。 疾風が背中でそのまま、階段にぶつかって庇ってくれている。 「…っぐ」 一番下に着く。そこで強かに背中を打ち付けた疾風が、小さく呻いた。腕の力が緩んだので、急いで琥珀は疾風の顔を覗き込んだ。 「だいじょうっ…ぶ!?」 その声に、疾風は瞑っていた目を薄く開けた。 「…悪い」 小さく呟いて、疾風は琥珀の腕を掴むとそのまま強く突き飛ばした。 かなりの距離を転がった琥珀が体を起こして振り返ると、丁度 階段から掃除の人の服を着た男が下りてくるところだった。 疾風はまだ階段の下に倒れたままだ。 男はちらりと琥珀を見て、疾風に視線を戻した。 疾風の肩を押さえつけた彼が持ち上げた手には、尖った陶器の破片。それが、疾風に向けて振り下ろされる。 息を飲んだ琥珀の前で、それをすんでで避けた疾風が相手の胸ぐらを掴む。 そのまま曲げた肘をしならせて、拳を相手のこめかみにたたき込んだ。 体勢は崩れたが、自分の上からどかすことは出来ない。そのまま組み合いになれば、下にいる分疾風の不利は明らかだった。 「やめ……やめてっ」 琥珀は、恐怖で掠れた声で叫んだ。疾風が傷つけられているのに、震えて動かない体が忌々しい。 守りたい、助けたい、こんな風に見ているだけなんて、嫌だ。 「――――――動くな! 絶対、動くんじゃない!!」 破片を持った手を押しとどめている疾風が、琥珀の方を見て叫ぶ。 今にも立ち上がろうとしていた琥珀は、その言葉に気圧されて体を硬直させた。 「どうした!?」 廊下を走ってくる音がしたのはその時だ。はっとしてそちらを見ると、眼竜やほかの見知った顔がこちらに向かってくるのが見えた。 疾風ともみあいになっていた人物は、顔を歪ませて破片を投げ捨て、彼らと逆方向に走っていった。 「失礼します」 小さく呟いて、隠密である千蛇が琥珀と疾風を通り過ぎて、その人物を追いかける。 「おい、なんだ…大丈夫か!?」 眼竜に助け起こされても、琥珀は頷くので精一杯だ。声が出ないまま疾風を指さした彼女に頷いて、眼竜が琥珀を抱えて疾風に駆け寄る。 疾風は右手で顔を覆って、倒れたまま息を吐いた。 「………立てるか?」 「軽い脳しんとう起こしてる。しばらく無理だな」 疾風は顔や腕からいくつも出血していた。苦虫をかみつぶしたような顔で、疾風が眼竜を睨む。 「警備責任者、減俸すんぞてめえ。 妙なもんが紛れてるじゃねえか」 「…うわちゃー…。 ……あ、でも、相手もさすがに武器持ち込みできなかったみたいだから……はい、ごめんなさい。私の不手際でございます。今後、二度とないように気をつけます」 廊下に落ちている凶器は、上の階に置いてあった皿の破片。血の付いたそれを見た眼竜は、ちょっと取り繕うように言ったが、もう一度疾風に鬼の形相で睨まれて、素直に謝った。 「……あの、わ、私、階段……落ち…て…っ、……ごめん、なさい……」 琥珀はぼろぼろと零れてきた涙を、袖で無理に拭った。 震えながら何度も謝罪の言葉をくり返す。 「あんな…の、庇わな、い…でいい……のに」 一人で落ちた方がよほどマシだった。 そうしたら、この人はこんな怪我しないで済んだ。 「………あのな、琥珀は巻き込まれただけだぞ」 「……っ」 ブンブン首を振って、聞く耳持たない琥珀に疾風は目を閉じて、言った。 「庇わせろ。恋人だろ」 ピタリと涙と動きを止めた琥珀に、疾風がさらに言葉を続ける。 「それより、武器持ってる奴に突進しようとすんな。いい加減その悪い癖直せ。取っ組み合いしてるところに入ってきそうなのを見て、ゾッとした俺の気持ちが分かるか!?」 「……ごめん、なさい」 「分かればいい」 「……目に浮かぶなぁ、それ…」 二人の様子をニヤニヤしながら見ていた眼竜の言葉に、疾風が不機嫌そうな顔のまま口を開いた。しかし、眼竜は琥珀を手招きして、その小言を遮った。 「琥珀ちゃん、ちょっとここで正座してくれるか?」 「うん…?」 少し離れていた琥珀は、四つんばいで移動して、彼の指示する場所に腰を落ち着けた。 「ほい」 眼竜は疾風の頭を掴んで、素早く琥珀の太ももに乗せた。 重さのかかった琥珀が下を向くと、頭を上向きに固定した疾風と目があった。それがいわゆる『膝枕』であると気づいた琥珀の頬が、見るみるうちに真っ赤になる。 「う、わ、ぁの…っ」 「じゃ、ゆっくり休め! こっちは適当に、公安と諜報部を動かして、黒幕捜してぶちのめしてくるから。 あ、琥珀ちゃん。無理に動かすと脳に支障が出るかもしれないから、触らないようにな」 そろっと疾風を太ももから下ろそうとしていた琥珀が、その言葉に動きを止める。 眼竜はニヤリと笑って、立ち上がった。 救急箱を持った鴉がこちらに来るのを見て、眼竜はヒラヒラと手を振って、行ってしまった。それを見送っていた琥珀が、疾風の顔を覗き込む。 「……あの、嫌だった、ら……」 「それはない」 嫌なわけがない。柔らかいし、温かいし、なんだか甘い匂いもするし、下から見上げる顔を紅くした琥珀もすごくそそられるし、何より―――――。 「…怪我、ないか?」 琥珀が頷く。 顔の横に流れるその蜂蜜色の髪をいじりながら、疾風は不安そうな彼女に笑いかけた。 全身を包む安心感に、大事なものを守れたことを実感する。 体は節々の痛みを訴えてくるが、無理矢理意識の外に持っていった。思いがけず降ってきた幸運を、じっくり味わわないと損だろう。 (…………さて、あいつはどうしてやろうか) もちろん、くだらないことに琥珀を巻き込んだ男への報復も忘れない。 知らず、暗く笑った疾風を見下ろして、琥珀がビクリと体を震わせた。 脳しんとうに肋骨数カ所骨折、左手の筋は伸びて切れてるし、顔とか首に切り傷多数。三週間安静です。 …え?両手塞がったまま受け身取らずに階段落ちたんですか?あの、よく応戦できましたね。ていうか一歩間違えれば、頭打って即死………って、ああ、琥珀ちゃん!? ごめん、言い過ぎた!!泣かないでぇ!!? |