その会話を聞いたときの琥珀のショックは、饒舌しがたいものだった。 (な、……、に……) 起きて着替えをして、寝室から疾風の自室に行こうというところ。扉の向こうから聞こえてきた会話に、ノブに伸ばした手が止まった。 「お前な……」 「もうちょっとだけ。いいじゃない、いつも融通してあげてるんだから」 知ってる声と知らない声が、鼓膜を揺らす。 磨りガラス越しに見える影はどう見ても抱き合っている。どころか、顔を近づけて甘い吐息で会話をしているようだ。 キス、しているのだろうか? そこまでは分からなかった。 (どうし、よう……) 琥珀は重い足を動かして、ゆっくり扉から後ずさる。 このまま回れ右して寝室に帰って、何も知らぬ顔をするのが正解のような気がした。だって、それ以外どんな道があるだろう。 別に、疾風に想い人がいてもおかしくないじゃないか。 ここにいたいと願ったのは琥珀自身。でも、それ以上、一人だけを望むつもりは…… 「ねえ、………今夜、予定空いてるなら」 聞こえた会話に頭がまっ白になって、思わず気づいたらノブを回していた。 扉を開けた琥珀の目に飛び込んできたのは、疾風と、彼の首に手を回す見知らぬ女の人の手。一瞬で目に滲んだ涙で、視界がぼやけた。 「……っだ、めっ!!」 疾風の腕を掴んで、琥珀が女を見上げる。 睨み付けるわけではなく、ただ悲しそうな顔で。 「疾風、さまは……っ、だめ、なの!」 「なっ、なによこの子! 離しなさいよ、この小娘!」 「やーーっ」 女性二人に引っ張られる形になった疾風は、面倒くさそうに息を吐いた。 「琥珀、落ち着け。あと睡蓮(すいれん)、離れろ」 琥珀が出てきても全く動じない所を見ると、いるのは気づいていたのだろう。 プルプルと震えて涙目の琥珀の頭を撫で、疾風は睡蓮と呼んだ女性に向き直った。 「もう仕事の雰囲気じゃないな。とりあえず今日のところは、話は終わりだ」 ショートカットに利発そうな瞳の、背の高い文句なしの迫力美人だ。二人並んだらお似合いだと、今更ながら琥珀は思った。 疾風が待ってろ、と琥珀に言って、睡蓮の背中に手を添えて廊下へと促す。 部屋から出る瞬間に、睡蓮が琥珀を見て鼻を鳴らした。 (………………、怒って、る…) パタンと扉が閉まった後、琥珀は力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。 出て行くつもりじゃなかったのに。仕事を邪魔するつもりもなかったのに。 みっともないことをしてしまった。後悔だけが頭の中をぐるぐる回る。恥ずかしくて消えてしまいたかった。 「………………」 やっぱりあの時、寝室に戻っていればよかった。 ポスンと力なくソファに座り、そのまま膝を抱える。嫌な想像ばかりがぐるぐる頭を回って、それだけで泣きそうな琥珀の眼に、ふと、戸棚にあるそれが映った。 「なぁにあの子ども。躾がなってないわね」 二人並んで廊下を進みながら、睡蓮はいたくご立腹だった。疾風は笑みを浮かべたままそれを見て、心の中で溜息をつく。 (せっかく、穏便におさめようとしていたのに) かなり面倒くさい展開になったものだ。 口に手を当てて、疾風が唇を拭う。 一階下の事務室で睡蓮と話をしている最中に、自室に忘れ物を取りに来た。そこへ下からこっそり付いてきた彼女に、不意打ちをくらった……のが事の顛末。 まあ、立ち聞きしている琥珀に、後で事情を話そうと思っていたのが間違いだった。まさかあの場で乗り込んでくるとは、完全に予想外だ。 今頃、この上なく落ち込んでいるだろう彼女をどうやって宥めようか考えているうちに、エレベーター前まで辿り着く。 「じゃあ、例の件は進めておくわね。次会ったときにでもゆっくりと」 「ああ、さすが、優秀で助かったよ」 ほら厄介なことになっている。 折角、仕事に関してはこの上なく、有能な相手だったのに。 「それと。今見たこと、誰にも話さないように」 エレベーターのボタンを押した疾風の言葉に、睡蓮が髪を掻き上げた。 「ふぅん……………てことはぁ、あの子のこと、知られては困るのね……? そういえば寝室から出てきたわね。どういう知り合い?」 睡蓮は疾風を試すように、腕を組む。 自分の表情が相手にどう影響するか、疾風は熟知している。だから、とびきりの笑顔で必要最小限だけ答えた。 「誰かに話したら、殺す」 ヒクリと彼女の喉が鳴る。 それと同時にエレベーターが到着した。 「今日はここまでしか送れなくて悪い。じゃあ……また、会えたら嬉しい」 恋人にいうような甘い約束も、彼女の顔を青ざめさせただけだった。慌ただしくエレベーターに乗った睡蓮に笑顔で手を振って、扉が閉まってから疾風は小さく呟いた。 その顔には何の感情も浮かんでいない。 「千蛇」 「はい」 「しばらく後をつけろ。適当な場所で、始末しとけ」 人の口に戸は立てられない。 彼女には悪いが。一番確実に口を塞がせてもらおう。 「はい」 優秀な隠密は、最低限の返事だけして去っていった。 それから、数分後。 適度にいいわけと慰めを考えて部屋に戻った疾風を待っていたのは、微かに香るアルコールの匂いだった。 「…………………………………………なにした」 扉を開けた状態で、疾風が唸る。 さっきまでは無かった香りなので、琥珀が引っ張り出してきたのだろう。そう思って思わず低い声が出た。酒にあまりいい思い出はない。 ちらりと視線を動かせば、やはり、棚においてあったはずのブランデーが机の上にあった。 「飲んだ、の」 「そりゃそうだ………って、おい!」 ソファに座っていた琥珀が、立ち上がって疾風の腰に勢いよく突進してきた。そしてよろけた疾風が、琥珀を庇ったまま転ぶ。 二人分の体重を受けた背中がきしんだが、そんな彼にお構いなしに、琥珀は疾風のお腹の上にまたがった。 「疾風、さま……」 そのまま疾風の上で、ネコのように体を伸ばす。肩に掛かった金糸のような髪が落ちて、肌をくすぐった。 すぐ近くで、アルコールで焦点の合わない瞳に見下ろされる。気だるそうな雰囲気と紅く火照った頬に、美味しそうだと、素直に感心した。 「あの、人………誰?」 「仕事相手」 目が据わってる琥珀に、疾風は用意していた返答をした。 琥珀が来る少し前、何回か寝たことがある仕事相手、というのはいらない言葉だろう。 「疾風さま、は私の、恋人?」 「当たり前だろ」 寝転がったまま言うと、紅い頬のまま琥珀がポロポロ泣き出した。 「う……うぅっ、ぇぅ」 ーーーーそりゃ恋人が、他の女とくっついてたら泣くよな。 「俺が悪かったです。ごめん、不意打ちくらいました」 「………、私も、ふいうち、で、抱きしめら、……れるの、いい?」 「………………その場合、相手の男の腕をもぎ取るか、抹殺する」 「私、には?」 「……とりあえず、おしおき、かな?」 押し倒されたままの問答に少し嫌な予感がした疾風。そしてそれは的中したようだ。 こくりと、頷いた琥珀が取り出したのは、長い紐だ。 それを見て、頭を撫でようとしていた疾風は、動きを止めた。目が据わったままの琥珀が、疾風の手をとる。 「今日、は私がする、の」 目の前で縛られていく自分の手を見ながら、疾風は目を細めた。ぐるぐる巻きに一括りにされた両手に頷いて、琥珀は頬に残る涙を拭いた。 「おしおき」 「…………………………せめて、寝室に行かないか?」 今いる場所は仕事場です。 疾風の言葉にきょとんとした顔の琥珀は、ふるふるっと首を振った。 (ああ、そう) 疾風は心で呟いて、琥珀に任せることにした。 やる気になっている琥珀を、止める理由は別になかった。 |