雪の日 #4





「ごちそう、さま、でした」

 十数分後、空っぽになったお椀を前に、琥珀は手を合わせて呟いた。

 少し遅れて、向かい合わせのソファに座っていた疾風が、読んでいた本を閉じる。かけていた眼鏡を外して、本と一緒にテーブルに置いた。

 置いた場所は琥珀が書いた原稿用紙の上だ。すでに読み終わって裏返しにされているそれをみて、琥珀は首を傾げる。

「…続き……」

「もう今日はやめとけ」

 言われて、時計を見る。

 確かにあの遅筆では、今日中どころか一週間後にできるかどうかも怪しいところだ。

「ん…と。 じゃ、返してくる…」

 静かな部屋の中。

 やけに時計の秒針が耳について、琥珀は落ち着かなかった。目の前のお椀を幸いと、お盆を持って廊下に出る扉のノブを回す。



 ガチャ



「………?」

 妙な手応えと共に、ドアノブが空転する。試しに向こう側に押したが、扉はびくともしなかった。

 もう一度ドアノブを回しても、結果は同じ。

「あ……」

 鍵が掛けられているのに遅まきながら気づき、恐る恐る後ろを振り返る。と、ソファに座った疾風と目が合った。

 足に肘をついて頬を手につけた疾風は、嬉しそうに言った。

「お皿は明日でいいそうだ。 …琥珀、ちょっとこっちにおいで」

 あくまでも優しく手招きする恋人の姿に、琥珀は戦慄した。背中を扉にひっつけて、半泣きになりながら精一杯首を振る。

 捕まったら最後、どんなことになるのか―――――

「…顔だけでも笑っていられるうちに、戻ってこい」

 端正な顔が微笑みの形をとったまま、ドスの効いた低い声が口から零れる。

 昼間よりも色々なものがプラスされたそれに、ぞぞぞぞぞ、と悪寒が背筋を這い上がって全身に鳥肌が立つ。

 突き刺すような威圧感に圧されて、根が張ったように足はピクリとも動かなかった。

「三つ数えるうちにな。 一…」

「待っ……足、動かな…」

「…二……三……」

 小さな声で訴えるが、相手は全く取り合わない。それどころか、楽しそうに数を数え終わってソファから立ち上がってこちらに歩いてきた。

 琥珀の手からお盆を取って、床に置く。

 疾風は目の前にいるが縛られたように、体が全く動かなかった。細かく震える琥珀の頬を撫でて、疾風が顔を覗き込む。

「時間切れだ」

「っ………ずる…い…」

「さて。 約束を破る悪い子は……」

 威圧感はまだ消えない。琥珀の恐怖感を煽るようにゆっくりと、疾風は蜜色の髪の一房に口づけた。宵闇の瞳が楽しそうに細められる。

「……、…っご、め…」

 どうにか動く舌だけでなんとか謝罪の言葉を絞り出す。

 疾風は琥珀の髪を弄びながら、眼を閉じてその声を聞いていた。

 聞き終えた後、琥珀の耳に口を寄せ吐息がかかるほど近くで、ゆっくりと、言葉を零した。

「…悪い子には、お仕置きだな」

















「きゃ…」

 横抱きにされた体をそのままベッドに落とされて、琥珀は小さく悲鳴を上げた。

 衝撃で上下に揺れるベッドの上、琥珀は手をついてどうにか身を起こし、楽しそうに笑う疾風を見上げた。

 このままでは非常に、とても、マズイことになるので、今思いつく最後の抵抗をしてみた。

「…………は、はんせいぶん…書いたらいい、って……」

 雪で遊んで帰ってきた後、琥珀は花梨と一緒に二時間ほど疾風から説教をもらっている。
 冷ややかな口調に言葉、針のむしろのような視線は非常に辛かったが、疾風も眼竜はもっと詳しい事情を聞いてくれた。

 そして最終的には琥珀の気持ちを無下にすることはなかった。

 二人は感想文としばらくの謹慎で許してもらえることになったのだ。

 それというのも、今日一日の氷雨内の噂話を集めても、琥珀と花梨の話が一切出なかったことが大きい。


 雪合戦に幹部三人が加わったということは、劇的な終わり方を含めて氷雨の中でトップニュースになっているが。



「馬鹿だな、琥珀」

 そんな彼女を見て、疾風が笑顔のままベッドの上に膝を乗せる。

「琥珀の主な仕事は、俺の相手だろ」

「……う、…ん」

 恋人とはいえ、ただご飯を食べさせてもらうのでは申し訳ないので、話相手など様々な意味が込められて、そういうことになった。

 料理や掃除はすると怪我をするのですでに止められて久しいし、結局それしかなかったせいだ。




「今日の俺が、―――――――琥珀をすごく、いたぶりたい気分なだけだ」



 パシ、と疾風がポケットから取り出した長い紐を伸ばす。琥珀は、声も上げられずに顔を蒼白にした。細かく震えて、すでに涙目の彼女に、疾風は実に楽しそうに笑った。

「せいぜい、楽しませてもらおうか」

「…っやーーっ!」

 ベッドの上を逃げようとした琥珀を素早く捕まえて、疾風は後ろから抱きかかえた。大きな体と強い腕は多少暴れたくらいではビクともせず。

 結局あぐらを掻いた疾風の足の上に座って、琥珀は執行前の死刑囚のような気持ちで待つしかなかった。

「さて…」

 左手で捕まえたまま、疾風は琥珀の目の前に小さくて白い錠剤を二つ差し出した。

「………?」

「媚薬。 特製の」

 首を傾げた琥珀は、言われた単語に小さく飛び上がった。はっきり言って嫌な思い出しかないそれを使うのは、疾風が本気で怒って、色々琥珀に言わせたい時だ。

 怖かったけれど、後ろを振り返った琥珀は精一杯首を振って、意志を示した。予想済みだったらしく、疾風は言葉を続けた。

「けど、可愛い恋人に無理矢理飲ませるのもどうかと思って。 今から言う中から自分で選んでくれ」

「…なに、を?」

「琥珀が飲むか、俺が飲むか。どっちがいい?」

「―――――――っ!! っや、ぁ」

 向かい合わせになった状態で大きく息を飲んだ琥珀を見て、疾風はその首筋に噛みついた。痛みで身を震わせた琥珀に笑って、軽く残った痕を舌でなぞる。

「ゆっくり決めていい。 明日は仕事が休みだしな」

 言われた言葉に琥珀が固まった。

 疾風はいつも仕事で予定表をぎっしり埋めている。なので、どの日が休みかは結構前から分かっていることだ。

 だから、こんな風に急に休みになるということは。

「あ、の…あの、仕事…は…?」

「重要なもの以外、全部雲雀に押しつけてきた」

 あくまでも軽い口調、穏やかな言葉だが、瞳の奥が光ったまま。そして手は既に服の中に侵入して、琥珀の素肌の上を這っている。

 琥珀は疾風の胸に顔を押し当てて、与えられる刺激に耐えながら必死で頭を動かした。

(後、はダメ…先に……、でも…)

 ちらりと疾風の方を見上げると、眼があった。

「散々体力使った後に飲むのは、辛いよな。 お互いに、早い方がいい」

「や、待っ…」

 そう言いつつ、猶予を与える気はないらしい。膝立ちになっている琥珀のまだ小さな胸の先端に触れて、そのまま手の甲で腹部をなぞる。

(…でも、疾風さま…飲んだら)

 特製、と言っていた。

 効能の具合や持続時間は分からないが、この状態で飲んでもらうとなると、文字通り、自分が食べられる気がする。

 まだピリピリする首もとが、警告のサインを送っていた。



 なにもない状態でも、疾風が満足できるまで琥珀の体力がもったことはない。その上、今の状況でそんなもの飲んだら。

「…………飲、む」

「どっちが?」

「……………………………」

 ひどくゆっくりな動作で、琥珀は自分を指さした。

「二つ一気に飲むか? それとも時間差つけて」

「……………………二つ、とも」

「賢明だな」

 琥珀の服から手を抜いて、疾風は一度ベッドから降りて水差しからコップに水を注いだ。



 そして錠剤と一緒に差し出す。



 琥珀は疾風の手からその薬を一つ取って口に含み、水を飲んだ。

 飲みたくない、と体が言っているのか、それほど大きくないにもかかわらず、嚥下するのに時間がかかる。

 そして一つ息をついた後、残りを取ろうと手を伸ばした途端、疾風は手を握ってそれを避けた。

「え……」

 きょとんとする琥珀の目の前で、疾風は錠剤をそのまま自分の口に入れた。

 そして琥珀からコップを取り上げて、残っていた水を全部飲み干した。
























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