雪の日 #7






「あの…しばらく実家に帰らせてもらってもいいですか?」

 とても言いずらそうに花梨がそう宣言したのは、あの雪の日から数日が経った朝のこと。

 あれから二日間、琥珀は冗談じゃなく生死の境を彷徨わされた。疾風に気絶するまで犯されたり、起きてはなんだか恥ずかしい事をさせられたり言わされたり、最終的に指一本動かなくなるまで疲労困憊させられて、ようやく解放されたのだ。

 文字通りベッドに縛り付けられるような生活から解放されて、今は反省文の続きを書いていたところだ。



 琥珀はようやく出来上がった十枚目を手に、顔を上げた。

「………しばら、く、って…」

 いつ帰ってくるの?と首を傾げる琥珀に、彼女は渋い顔で頭を掻いた。

「えと…それが、いつ帰ってくるかちょっと…」

 曖昧なことを言っているのは分かっているが、他に言いようがなく。しかしそこまで言って、花梨は動きをとめた。

 なぜなら、こちらをじっと見る琥珀の顔が蒼白になっていたからだ。普段からそれこそ雪のように白いのに、卒倒するかと思うほどの顔色に、花梨は心配になった。

 と、その琥珀の眼にみるみる涙が溢れてきて――――― 彼女にしては珍しく、大粒の涙が零れだした。

「こ、琥珀さま…?」

「だ、だめ…、行っちゃ、だめ…!」

 テーブルの向かい側にいた花梨のところまで移動して、琥珀は彼女にしがみついた。花梨は座っていた椅子ごとひっくり返るのをどうにか耐えて、琥珀を支える。

 そんなことにも気づいていない様子で、琥珀は思い切り首を横に振った。

「ごめんなさ、い。悪いと…ころ、治す…っ。いい子に、するし、これも、もう一人でする…から!」

「って、え? あ、違います!!そうじゃなくて!」

 折角書き終えた原稿用紙を握りつぶす勢いで訴える琥珀を前に、花梨の方が慌てる。

 どうやら彼女は、花梨が気に入らないことがあってここを去っていくと思っているらしい。あなたのどこをこれ以上治すんですかというツッコミを心の中でして、花梨は震える琥珀の肩を叩いた。

 けれども離されまいとさらにぎゅっと花梨を抱きしめる琥珀を見て、彼女は苦笑した。

「違いますよ。 ここが嫌になったとかじゃなくて………ちょっと自分を鍛え直してみようかな、って思って」

 ゆっくりと宥めるように話すと、琥珀がようやく、ゆっくりと顔を上げた。

 琥珀色の瞳に涙で光が反射して、本当に綺麗だなと花梨は思う。への字に結んだ唇が、とても可愛くて思わず笑ってしまった。

「でも…花梨、さん、もう強い…」

「いやいや、私なんてこの建物にいる人の中で一番弱いんじゃないですかね。 だから、もっと強くなりたいんです」

「………なんで?」

「いやまあそれは…。とにかく、もう決めましたから」

「……」

 真剣な表情で言えば、琥珀は口を結んだまま、またプルプルと首を振る。いつになく強情な琥珀に、花梨は小さく溜息をついた。

「本当は疾風さまに言って、そのまま出ようかと思ってたんですけど…やっぱり琥珀さまに先に話をするのが筋かなって。

 待っててくださいよ!しばらくかかるかもしれませんが、ニュー花梨を見せますから!」





 そこまで言ったところで、琥珀は花梨から離れた。

「……―――――花梨さん、きらいっ!!」





 ぼろぼろ涙を流して、そんなことを思っていないのがよく分かる表情で琥珀が叫んだ。

 言った後に自分が傷ついた顔をして、涙を袖で乱暴に拭うと、そのままネコの鳴くような声を上げて走り去ってしまった。

「あ…、転びますよ…」

 椅子に座って呆然としたまま、一応その背中に声を掛ける。それが聞こえたのか、琥珀はさらに速度を上げて視界から消えてしまった。

「………痴話喧嘩かい」

「っていうか私も言われたい。 琥珀ちゃんに『きらい』って…なにあの可愛い口答え。和むわ〜」

 すぐそばで聞こえた声に、花梨は勢いよく振り向いた。見れば、すぐ背後に顰めっ面をしている眼竜と、頬に手を当ててうっとりしている鴉がいた。

「う、わっ!!! お二人ともいたんですか!?」

「途中からね。 どしたの?喧嘩なんて珍しい」

 よいしょと大人二人が椅子に座る。

 そういえばここは台所だったと気づいて、花梨は頬を染めた。琥珀に言わなければ、というのに必死になって場所を考えるのを忘れていたのだ。

 ばっちり聞こえたのだろう、いつも騒がしいはずの厨房がシーンと静まり返っていた。

 顔を紅くしたまま花梨は消え入りそうな声で、目の前の二人に言った。

「ちょっと、お暇をもらおうかと思って…」

「え。 ついにここに愛想がつきたの?」

「馬鹿、ストライキだろ? 給料上げて欲しいなら先に言っといてくれりゃ、こっちも融通すんのに」

「違います!! というか今でも貰いすぎなのに!」

 眼竜と鴉が真面目な表情で言うのに、花梨は急いで首を振った。そしてそのまま俯いてしまう。

 そんな様子の花梨を見て、眼竜がボリボリと頭を掻いた。

「なあ鴉、頼んでいいか? ちょっと琥珀ちゃん保護して、どっかで宥めといてくんねーか?」

「ん…オッケー。 確かに心配だしね」

 眼竜が隣の鴉に頼むと、彼女は長くて黒髪を掻き上げて立ち上がった。そのまま視線を琥珀の走っていった方に向けて、着ている白衣を翻して去っていった。

 よっこいしょ、ともう一度椅子を動かして、眼竜が花梨の前に陣取る。いつもとは違う彼の雰囲気に、花梨は思わず居住まいを正した。

「………で、雇い主側としては、従業員が職場を離れることに関して理由を聞く権利があると思うんだが」

「…? 私と琥珀さまの話、二人ともてっきり聞いていたものかと…」

「だから、途中からッつったろ。俺らが見たのはニュー花梨の少し手前あたりだ」

 そのこっぱずかしい呼び名に、さっきの騒ぎと同様にいたたまれなくなって、花梨は顔を背けた。さすがに、十五の少女にあの台詞はなかったと思う。



 しかしどのみちこの人と疾風には話さなければいけない話なので、花梨は俯きながら口を開いた。

「………私も眼竜さまみたいな筋肉とか、鴉さまみたいな処世術とか、疾風さまみたいにピンチなんてちょちょいのちょいと解決する能力が欲しいので、ちょっと修行に行ってくるんです!!!」

「へ?」

 思いも寄らない話の出し方に、さすがに眼竜が眼を見開いて素っ頓狂な声を上げた。いつにない攻撃的な口調と視線に狼狽えながら、眼竜は眉間を揉んだ。

「えーと……待て。 つまり花梨は強くなりたいから、お暇をもらって鍛え直して来たいと」

「まさにその通りです。 私も強くなるんです! …………そうしたら…次に雪が降っても…琥珀さまも雪遊び出来るじゃないですか…」

(あー…そういうこと)

 眼竜は、あの騒ぎを思い出して納得した。

 ここのところ、花梨が何か落ち込んでるなとは思っていたのだ。

 きっと自分や雲雀では頼りがないが、眼竜や鴉と一緒ならば、きっと疾風は遊ぶ許可を出していただろう、とかそういう…。









「まあ、花梨の気持ちも分かるがな」

 渋い顔をして眼竜が呟く。

「でもこの間まで一般人だった花梨に、俺みたいになれって方が無理があるだろ。それこそ、そんなこと疾風も琥珀ちゃんも望んじゃいねえよ」

「でも、じゃあ、私の仕事は…」

「今のままでも十分役に立ってるよ。 この間の雪合戦の時だって、きちんと琥珀ちゃんのこと庇って――」

「――――――――――っ、どこがですか!!!」

 バアン、と食堂中に響く音を立てて、花梨が机を叩いた。

 さすがにびっくりした顔の眼竜の前で、花梨は張りつめていた糸が切れてボロボロと涙を零した。

「私、全然役に立ってない…っ、あの時、庇われたのは私の方じゃないですか!!」

「…そう、だったっけ?」

「そうですよ! 琥珀様が真っ先に名乗り出て…あの子は本当に、ねえ、こっちが躊躇している間に、飛び出すんだからどうしたらいいんですか!!!」

 バンバンと机を叩く花梨がさらに言葉を重ねた。

「例えばあの場で銃を突きつけられたとしても、ためらわずに前に出てますよ。 一瞬でも私が保身を考えたらもう出遅れるんですよ!もー!!」

 自分でも名付けられない感情に腹を立てる花梨の頭の中で、ぐるぐる回っているのは、琥珀と初めて会った日の光景だった。

 薄暗い物置の中で、花梨を庇って小さな体で男達から守ってくれた、あの日のことは一生忘れないだろう。

 気絶し掛けていたから、はっきりと見ていたわけではない。だけど、計算も後先も考えずに、初対面の花梨を助けるために、彼女の全てを投げ出したことだけは分かった。

 そんなことをされても、こちらは全然嬉しくもない。健気な彼女を知ってからは尚更だ。

 どれだけ自己嫌悪に陥ったのか、情けなかったか。琥珀を守るのは自分の役目と決めた日からの花梨の誓いだったのに。

「私は、あの子のあんな姿をもう二度と見たくないんで……修行し直すんです!!」

 分かりましたか!?と涙目の花梨に指を指された眼竜は、一瞬呆然とした顔をした。

 そのまま彼女が睨んだままいると、しばらくして、お腹を抱えて笑い出した。

「な、何が…可笑しくなんかっ」

 もう自分でも収拾がつかないのだろう、ずっと怒りっぱなしの花梨を見て、眼竜は眼に涙を溜めながら彼女の頭を軽く叩いた。

「いやあ、本当にいい拾い物をしたなあと思って。 それ琥珀ちゃんに言ってあげればいいのに。そしたらあんな風に逃げだしゃしなかっただろ」

「本人に言ったら恩着せがましいだけじゃないですか」

「あー、まー、そーーいうことなら…」

 口に笑みを張り付かせたまま椅子の背にもたれて、眼竜が天井を仰ぐ。豪奢なランプが吊された、細かい絵の描かれた天井を見ていた彼は、突然ぱっと起きあがった。

「強くなりたいってのは、俺も賛成。 ただな、花梨が実家に帰って修行しても、多分役にたたねえよ」

 ようやく一歩進めたのを感じて、花梨は涙を拭った。眼竜の言葉に首を傾げる。

「うちの父じゃ役に立ちませんか?」

「いやいや、そういうことじゃなくて。

 ………例えば……琥珀ちゃんの身に危険が迫っているとして、花梨はそれを回避するために人を殺せるか?」

「……っ」

 思わず息を飲んだ花梨を見て、眼竜は机に頬杖をついて親指で自分を指した。

「しかも殺す相手は、俺だったりしたら?」

 眼鏡の奥でにっこりと笑う眼竜を前にして、花梨は固まった。先程のまでの威勢も萎んで、ただ首を振る。

「で、きません…」

「だろうな。 でも逆の立場なら俺はやるよ。 例えばそれが花梨だとしても、躊躇なく」

 小さく息を飲んだ少女を見て、眼竜は視線を宙に向けた。そのまま誰ともなしに言葉を続ける。

「俺にとって大切なものがあって、それを守るためなら顔見知りでも容赦はしない。俺はそう教わってきたし、実行してたし、これからもそうする。

 でもな、花梨の役割は俺とは違うだろ。だからさ」

「………わ、分かりま、した。 こ、殺せるかどうか分からないけど、やり方くらいは知っておかないと…」



 真面目だからこその結論か、どこか薄暗い瞳になって花梨は震える自分の両手を見つめる。

 それを見て、さすがに慌てたのは眼竜だ。

 いつも明るい元気な少女にそんな物騒な言葉を吐かれると、やけに心臓に悪い。





「ごめん俺が悪かった! 正気に戻れ、だからそうじゃなくて…」

「……んな暗殺技術持ってる奴を、琥珀と四六時中一緒にいさせるわけにいかないだろ」

 ちょうどそこに現れたのは、不機嫌そうな疾風だった。

 渡りに船!と眼竜が喜んだのもつかの間。

 彼は眉間にしわを寄せたまま、花梨と眼竜の座っている所まで来て、二人の間にあるテーブルに手を付いた。

 そのまま疾風は花梨の顔を覗き込む。



「さっき泣きながら走ってくる琥珀を捕まえたら、なんか一生のお願いをされた。

 花梨を説得してと言われたんだが、俺は一体何を説得すればいいんだ?」



 地雷を、踏んでしまった。

 花梨の全身に鳥肌が立ったのは言うまでもない。



「うわー…、状況が目に浮かぶー…」

 両手で顔を覆って、眼竜が小さく呟いた。

 一方、至近距離で睨まれて身動きができない花梨は、ほとんど泣き笑いの表情で、答えた。

「いやあの、その……琥珀さまを守るために修行してきますので、実家に帰らせてもらえますか?」

「却下」

「あ――――――――………ですよね――」

 分かっていた。分かっていたけれど…漢字二文字で終了は切ない。

「疾風…ちょっとそれじゃ花梨ちゃんが可哀想だし、強くなること自体は悪い事じゃないだろ。 何か他にいい案ないか?」

 眼竜の言葉に、疾風はようやく花梨の前からどいた。そして眉間に皺を寄せたまま、息を吐いて近くの椅子に座り込む。

 そして腕組みをして、背もたれに体を預けて視線を宙にさまよわせた。

 そのままの格好で一言も発しなかった彼は、しばらくして体を起こした。

「ルールに則った武道でいくら強くなっても、ここじゃ腹の足しにもならない。それは分かるな?」

「あ、えと、はい…」

「だから実家に帰って修行するだけ無駄だ」

 話は終わりとばかりに立ち上がった疾風に、慌てて花梨は追いすがった。

「っでも、今度は私があの子を守りたいんです! 今のままじゃ、駄目なんです!!」

 叫んだ言葉に、疾風が花梨を見る。

 静かな藍色の瞳に見下ろされて、花梨は自分の無知を責められているような気がした。

「…俺が花梨に求めてるのは、なんだと思う?」

「あの子を守ること…です」

「三十点。 お前が敵をばっさばっさなぎ倒すことなんて、不可能だろ」

 呆れた様子で溜息をつかれた。

 あれ?

 そこで、花梨もじわりと自分の中で疑問が生まれた。

 そもそも、それを疾風が求めていないとするのなら、何故ここにいさせてくれるのだろうか。

 ではただ傍にいること? いや、でもそれも違う気がする。一般常識を教えたり、いろいろな手伝いをするのはあくまで『ついで』だ。

 疾風は多少は腕に覚えのある人材が欲しかったと言っていたではないか。けれども花梨じゃ、マフィア同士の闘いでは役に立たない。

 相手に勝てないのなら、ならどうやって琥珀を守る?

「…………」

 黙り込んだ花梨を見て、疾風はその頭をポンポンと叩いた。

「答えが分かるまで暇云々は保留な。 あ、勝手に帰ったら、ぶっ殺すぞ」

 最後に爽やかに脅しを掛け、眼竜に二、三個用事を言いつけて、疾風は今度こそ二人に背を向けた。





 立ったまま考えていた花梨が閃いたのと、疾風が食堂から出るのは同時だった。

 バッと顔を上げた花梨は急いで彼の後を追った。廊下のまだ遠くないところに、背中が見える。その背中に向かって花梨は叫んだ。

「――――――――ッ逃げます! どんな状況でも、私、琥珀さまを連れて逃げて帰ります!!」

 その言葉に歩いていた疾風が、ピタリと立ち止まって振り返る。

「正解」

 たたっと疾風のところまで走ると、疾風は、そんな花梨を見てにやっと笑った。

「さて、なら答えは簡単だ。 うちで実戦経験して生き残る方法を自分で体にたたき込め」

「そ、そっか!」

「あとはまあ、一日一回顔を出したら、琥珀も文句はないだろ」

「なるほど!」

 目の前の霧が晴れていくような感覚に、手を叩いた花梨を見て疾風は言った。

「――――――――じゃあ、今から行ってこい」

「はい! って、い、今から!?」

「ああ。早いほうがいいだろ。 千蛇」

「はい」

 名前を呼んだ途端にいきなり廊下の隅に現れた薄氷色の髪の少年に、花梨が目を見開いた。

 そんな彼女をよそに、疾風は手短に、彼に用件を告げる。

「うちの諜報部隊のエースだ。 とりあえず、お前の二週間お試し訓練期間中の教官」

「……って、え?」

「では行きますか」

 あいさつもなしにいきなり少年に首根っこを掴まれて、ずるずる廊下を引きずられながら、花梨は思った。

 この展開の速さはなんだか覚えがあるような…!











「…………………疾風、これって単なるヤキモチと憂さ晴らしじゃ…」

 追いついてきた眼竜が手で庇をつくりながら、頭にハテナマークを浮かべたままの花梨を眺めつつ、疾風に話を振る。

「お前、一生のお願いを花梨に使われて、怒ってるだけだろ」

 彼は眼竜の言葉に視線を少しだけそらして、呟いた。



「さあな」
























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