バァン!と扉がもの凄い勢いで開かれて、ちょうど大皿を磨いていた楓は飛び上がった。振り向けば、ちょうど不機嫌そうな疾風が足を下ろすところで。 いきなりのこととはいえ、ボスの登場に楓は素早く立ち上がって、疾風に直立の体勢を取った。大皿は持ったままだ。 ちなみに疾風に足蹴にされた扉は、鍵が吹き飛んでひしゃげている。 「は、やて……っさまっ」 疾風の後ろに、あの少女ーーー琥珀の姿があった。 こちらに近づいてくる疾風の服を引っ張って、待ったをかけてはいるが、足止めの『あ』の字にもなっていない。 「こいつにガキのことを話したか?」 楓の目の前に来て、疾風が琥珀を顎でさす。 琥珀は疾風の服を持ったまま顔を青ざめて、泣きそうな顔で楓に首を振っていた。 (え、なにそれ? どういうこと!?) ジェスチャー通りに受け取るならば、言うなと言うことだろうか。 しかし、どう考えてもこれ、バレてる。 疾風も半ば呆れた様子で琥珀と楓を見ていたが、最終確認のために楓に向き直った。 「言ったか、言ってないかどっちだ」 琥珀に話したのは大失敗だったということだろう。 十数分前の自分を殴りたい気分になりつつ、楓は覚悟を決めた。 ボスには正直に当たって、砕けた方がいい。 ………これから何が起こるか、すっごく怖いけど。 「言いました」 「そうか」 軽い口調が返ってきて、楓が拍子抜けした次の瞬間に、世界が反転した。 軸足を蹴り払われて床に倒れた、と楓が気づいたのは天井を見て二拍ほどたってから。そのあと少し遅れて、手から吹っ飛んだ皿が砕ける派手な音が聞こえた。 「余計なことしやがって」 さらに詰め寄ろうとしている疾風の前に、琥珀が立ちふさがった。 「駄目、だめっ」 疾風の冷たい視線と言葉に、琥珀は体を震わせた。しかし、彼女は ぎゅっと目を瞑り、殴られるのを覚悟して、その場にとどまった。 「どけ」 「………っ」 けれど、思っていた痛みは来ず、そのまま肩を掴まれて、無理矢理進路から押し出された。 疾風にとって、琥珀は眼中にないらしい。 けれどこのままだと、罪のない楓が危ない。琥珀はもう一度、今度は疾風に正面から抱きついた。 「私が、聞いたのっ………!」 ぎゅうう、と力いっぱい抱きしめて自分を止めようとする姿を見てーーーーーー疾風は長い息をついた。 「………………わかった」 その言葉に琥珀が顔を上げる。戸惑いに揺れる琥珀色の瞳を見ながら、疾風は彼女の腕を外した。 身体が離れた瞬間に、疾風の口角が上がった。 「あと一発で我慢してやるよ」 言うが早いか、疾風は楓の胸ぐらを掴んで持ち上げると、思いっきり腹部を殴った。 「………っ!!?」 痛みで声が出ない楓から、疾風が手を離す。 床でもんどり打つ彼をしばらく見ていた疾風は、琥珀の方を向いた。 「こいつに話を聞いたんだな。鍵は? それともドア越しか?」 「…………スペアキー……で、……」 呆然と今起こった出来事を見ていた琥珀が、答えた。 「なるほど」 疾風の自室に各部屋を開けられる鍵の束があった。たまに引き出しから出しては使っているのだが、琥珀はそれを覚えていたらしい。 必要な時に、必要なものを使って、必要な情報を引き出した。 せめて訪問者があの二人でなかったら、進歩として喜んでいたかもしれないな、と疾風は心の中で思った。 無言で手を差し出すと、琥珀は緊張した様子で一つの鍵をその上に置いた。それをポケットに入れて、疾風は楓に話しかけた。 「さて、楓。お前は余計なことを言ってはいけないし、してもいけない」 「……、は、い」 「今日起こったことは誰にも言うな。意味は、わかるよな」 必死に絞り出した声にも、一切の同情はない。疾風は淡々とした様子で、のたうちまわる楓に言う。口調は控えめだが、その中身は明らかに脅迫。 「誰、にも……っ言いません」 「助かる。もう帰宅していいぞ」 話し終わって、そのまま三秒待った疾風は、眉間に深く皺を寄せた。 「………………なにいつまでも寝ころんでんだ。今日はここに泊まる気か?」 理不尽。 楓は立つどころか、激痛で顔も上げられないままだ。彼はしばらく身体を小刻みに痙攣させながら、うめき声を上げていたが。 そのうち、うつぶせになったまま動かなくなった。 「…………っ」 琥珀が慌てて駆け寄って、その肩に触れる。けれど、楓はなんの反応も返さなかった。最悪の想像をした琥珀が疾風を見上げると、彼は軽く肩を竦めた。 「死んでるわけじゃない」 あまりの痛みに、気絶しただけだ。 「ひ、どい……!」 思わず口から出た言葉に疾風の表情が、さらに不機嫌具合を増した。言ってはいけなかったかと、一瞬後悔したが、思い直す。 楓に罪はない。 「私、が悪い………っのに」 「ああ。俺の話をちゃんと聞かなかったからな」 「……でも、私の知り合い、なら……呼ぶって言った、のに」 「あまりにも突飛すぎて、まず疑うのが当たり前だ。お前の存在を確認しに来たやつだったらどうする」 「……違った、もん!」 「結果論だ。連絡先は聞いてる。裏付けを取ってからなら、顔合わせするのはちゃんと考えてた」 夜叉たちを琥珀と会わせずに返そうとしたことを言っても、疾風は表情を変えない。 もとより口で敵う相手ではなかった。それでも、カッカきていた琥珀は食い下がった。 「別に、誰とでも……会う、くらい」 「お前を譲ってくれと言ってくる相手にでもか?」 その言葉に、小さく息を吸って琥珀は固まった。 疾風は髪を掻き上げながら言葉を続ける。 「それで、目の前で金やらなんやらと自分を交換する話を聞きたいって? 適当に相づち打って、話に乗った振りをしながら脅してお帰り願うところま、で」 話の途中で、疾風が目を見開いて口を閉じる。自分の失言に気づいて、青ざめた。 「…………………え?」 疾風が琥珀を見ると、彼女はみるみるうちに頬を真っ赤にさせて、今にも泣き出しそうな顔になった。 「な、……に…?」 ここにきてからもう随分経つが、琥珀はペットの売買の話を一度も聞いていない。だから、不思議に思いつつもマフィア相手にはそんな話はしないのだろうかと、少しだけホッとしていたのも事実だ。 でも違った。 もしかしたら、商談次第ではどこかに行かなければいけない可能性が、あるのだろうか。ここではない、どこかに。貴族のところに。 「や」 (なんでもするから。何でも言うこときくから、ぶたないで) 琥珀の頭の中に、忘れていた声が響く。 記憶の中で幼い自分が身体を縮こまらせて泣いていた。腕や頬や目に青あざを作って、必死に頭を抱えている。いつ殺されるかもしれないという恐怖で、上手く呼吸することすらできなかった。 |