部屋を出て、そのまま廊下を走る。
ぐるぐると回る頭はとっくに考えることをやめていて、ただ急き立てられるように、地面を蹴った。
そのうちに襲ってきたのは、強烈な吐き気と眩暈。目の前の景色が歪んで、自分では走っているのか歩いているのかすらわからなくなっても。足は止まらなかった。
「あ、っ」
足がもつれて、廊下に派手に転ぶ。幸い目撃者はないようで、廊下に倒れたままの琥珀はようやく『息が上がって苦しい』ことに気づいた。
肩が上下するたびに、ひゅー、ひゅーと変な空気の音が聞こえてくる。それが自分の呼吸音だと認識する間もなく、琥珀は起き上がった。
転んだ時に擦ったのか、ヒリヒリする肘や膝も気にせずに。
胸を服ごと握りしめながら、琥珀は廊下の先にあるその扉を、勢いよく開けた。
「おい、ノックくらい……」
無遠慮に大きな音を立てて開かれた扉に、疾風が顔を上げる。ソファに座って書類を手にしていた彼は、来訪者を見て虚を突かれたような顔をした。
「琥珀?」
顔はぐちゃぐちゃかもしれない。走ってきたからきっと髪の毛もボサボサだ。それでもそのまま、琥珀は疾風の胸の中へ駆け込んだ。
首に腕を回し、ぎゅーっと腕に力を入れてすがりついた。それだけで、先ほどまで自分を支配していた感情がだんだん落ち着いてきた。
呼吸の仕方を思い出す。大丈夫、『ここ』は安全だ。
それと同時に理解した。先ほどまでの、感情の名前を。
戸惑いつつも書類を離した疾風が、琥珀の体を抱え直した。
なにも言わずに肩に顔を押しつけてくる小さな背中を、疾風は優しく撫でた。
「どうした?」
「……………」
ああ、そうか。
問いかける言葉にゆるゆると顔を上げた琥珀は、つかの間、目の前にある疾風の顔を見つめた。
彼女は気遣うような藍色に微笑みを返す。
「うう、ん。なんでも、ないよ」
それは、相手を信頼しきった表情で。
「……っ」
その無防備さに、思わず息をのんだのは疾風の方だった。
ごめんなさい、とか、忙しいのに、とかを言いながら体を離そうとする琥珀の腰に手をやって閉じ込めると。
自分から飛び込んできた獲物は、疾風の肩に手を置きながら、不思議そうな顔をした。
「………ん、と……?」
ソファに座っている疾風に対面するような形で、琥珀が再度離れようと体に力を入れる。けれども、背中に回った手は相変わらずそこにあって、立ち去るのを許さなかった。
「ところで」
肩に置かれた琥珀の手を取って、疾風が目の前にかざす。
掌に残るのは、先ほど転んだ時にできた擦過傷。たいしたことは無いが、少し血もにじんでいる。その様子に疾風が眉をしかめた。
「転んだのか?」
膝にも同じような傷があるのを見て、疾風が言う。
「………」
さっきそういえば、転倒したのを思い出す。気が動転していたから、忘れていられた痛みも主張をはじめた。
とはいえ、擦りむいた程度。痛覚の鈍い琥珀としては、微々たるものに違いはない。
コクリと頷いた琥珀が何かを言う前に、その体が疾風の膝の上に横抱きにされた。
そのまま疾風は琥珀の掌に口を付けて、傷口を舐める。
「……いっ」
傷口に舌が這わされる。ざらざらした感触が傷を逆撫でして、琥珀は思わず腰が引けた。
(や、これ……っ)
慌てて自分の手を取り戻そうとしても、相手はびくともせず。
わざとらしく、熱を煽るように疾風の口が掌を蹂躙する。性感帯を刺激され、傷を唾液で濡らされて、ようやく離された時には琥珀の顔は真っ赤になっていた。
「……っ」
近づいてきた顔に身構えたところで、キスが額に落とされた。そうして、目を合わせた疾風が至近距離で笑った。
「したくなったか?」
「……いじ、わる……だ」
体に灯った熱がまどろっこしい。疾風が余裕の表情だから、特に。
「まぁでも全力疾走するくらい元気なのはなにより。あの様子だとお化けでも出たか」
「ううん。あのね、道を、案内するのでだっこされて」
あったことを話す。そう、あのとき感じたものは、恐怖だった。
楓に抱えられて自分の足が地から浮いた瞬間に、ぞくりと、背筋が凍った。『知らない人』の『腕の中』が怖くて、身が竦んだ。
楓を疑っているわけではなく、体が勝手に反応したのだ。
頭が真っ白になって、思わず部屋を飛び出した。そうして恐怖に耐えきれず、真っ先に頼ったのは疾風で。
その傍に居て、温度を感じればそんなモノはどこかへ行ってしまったけれど。
「疾風さま、なら平気なのに、……すごく、嫌だって、思って」
「抱っこ? ……抱き上げられた?」
拙い言葉とはいえ、いつもならば最後まで話を聞いてくれる疾風が。話の途中で問いかけてきた。
ふと違和感を感じたが、琥珀はこくりと頷いた。
「う、ん」
「――――――――誰が、お前に触った?」
「?」
ぽつり、と。表面は静かだけれど、怒りを含む質問が降りてきて、琥珀は我に返った。
(……………あ)
小さな口が閉じられたのを見て、疾風が目を細める。こうなったら多分琥珀は意地でも言わないだろうから、忠実な部下に頼むことにした。
「眼竜」
「……ほい」
呼べば、扉の外で待機していた眼竜がすぐ顔を出す。
詰め所に顔を出しに行くと部屋を出たはずの彼が、やけに部屋の前でうろうろしていると思ったら、なるほどそういうことか。
「誰?」
俺のものに触ったのは。
言外に含みをそんなもたせて、疾風が笑う。
「は、疾風……さま」
腕の中で心なしか青ざめた琥珀が、疾風の服を掴んだ。その様子をちらりと見て、疾風は言った。
「元気なのはいいが怪我はすんな。心配になる」
頭をわしわしと撫でた疾風がとても上機嫌だと気づく。眼竜もなんだか予想と違った様子に戸惑っているようだ。
「あーまぁ、他意は多分ない。慣れない場所で案内が欲しかったってとこだ、と思う」
「それはどうでもいい。で、誰」
「…………楓」
その名前を聞いて、疾風は心底あきれた顔をした。
「……っかしいな。釘ぶっ刺すつもりで前回は殴ったんだが、効いてなかったか。もうちょっと内臓の捻りを狙うべきだったかな」
手を開いたり閉じたりして、指をポキポキ鳴らす疾風に眼竜は静かに首を振った。
「いや、効いてるだろ。あのあと立つこともままならなかったし」
「ふぅん。あいつ、なんか運悪いのか? タイミング悪すぎ」
なんだこんなに穏やかなら、急いで追いかけてこなくてよかったか。そんな風に思った眼竜に、疾風は言う。
「とりあえず伝言な。いいもん見られたから今日は、勘弁してやる。二度とこんな真似すんじゃねぇ、次は殺る」
あぁ、怒ってないわけじゃないんだ。
笑顔を引きつらせた眼竜は、了解のサインを出した。
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