「きゃ、…ぁ…っ」
琥珀が疾風に無理矢理連れてこられたのは、海岸から少し離れた洞窟だった。
足元はごつごつとした岩肌で、多分サンダルを履いていなければ切って怪我をしていたかもしれない。
どこからか風が通っているので湿気はそれほど多くはないが、外の光があまり入って来ない。じっと目をこらして、ようやく疾風の目が見える程度の明るさだ。
「ここ…なんで…?」
無言のまま手を引かれてここまで来たので、疾風の真意がわからない。足元と同様に無骨な岩壁に背をつけるような形で、琥珀は恐る恐る彼に尋ねた。
「なんだと思う?」
髪を掻き上げた疾風が、勿体ぶった様子で質問に質問で応えてきた。
琥珀が困惑している間に、彼の手が、見せびらかすように開いたデザインの水着と素肌をすっとなぞる。
そこで意味が分かったのか顔を蒼くした琥珀に軽く笑いながら、疾風は結い上げられた頭から垂れる髪をもてあそんだ。
「大丈夫。ここには誰も来ないから」
くすりと笑みを含んだ声が、耳元で囁いた。
低く、からみつくような甘い声。ぞくりと背筋に、いつもの感覚が走った。
「怒って……?」
疾風はそれには答えなかった。ただ軽く口の端を持ち上げて、琥珀の首筋に手を這わせる。大きな手が急所であるそこに触れた瞬間、琥珀は体を硬直させた。
「こんなものを着て…」
疾風の手が下に動き、水着に触れてその形を確かめるように指先で遊ぶ。
薄紅色で端にレースのつけられたそれは、白夜が用意したものだ。服装に頓着しない琥珀は用意されたものをそのまま着たのだが、それがよくなかったのだろうか。
確かにこれを着ていると疾風はじめみんなが変な顔をしていたし。
(似合っ、てない…かな…)
花梨や鴉や凪もそれぞれ可愛いものや綺麗な水着を着て、すごくかっこうよかったけれど。
あまり凹凸がない体には着てはいけないものだったのか。
「ご…」
「すごく可愛いから、まあいいかなと思ったけど」
水着を渡されたときにちゃんと断らなかったのが悪いと、謝ろうと思った琥珀の言葉に疾風の声が被った。思わぬ褒め言葉に、彼女は疾風を見上げた。
闇の中で光る目を隠すように満面の笑みを浮かべた彼が、琥珀の水着のフロントフックに手を掛ける。
え?と思う間もなく、そこにあった金具と薔薇を形取ったコサージュが音を立ててはじけ飛んだ。
「琥珀のその姿を野郎どもに見られるのは、ひじょーに腹立たしいので」
半分嘘で半分本当。
独占欲はもちろんあるけれど、なにより琥珀の反抗的な態度が気に入らないだけ。
人間なんて思い通りにならないことの方が多いのに。俺も子どもだな、と疾風は心の中で自嘲した。
「え? え、え…?」
まだ状況がわからない琥珀は、眼を丸くしたまま反射的に胸を隠した。
留め具が壊れて肩からだらんと下がる水着はそのままに、胸を隠す両腕を掴んで、疾風が琥珀の首筋に噛みついた。
「…っん」
何度も確かめるように舌と唇がそこをなぞる。思わず出た声が思ったよりも洞窟で響いて、琥珀はさらにぎゅっと目と口を瞑った。やがて、強く吸われる感触がして、一度息を吹きかけられてから体が離れた。
頭の中がハテナマークでいっぱいになっている間に、頭から大きなパーカーが被せられた。
「着て」
体は少し離れたけれど、圧迫感は無くなっていない。視線も外されないままだ。
困惑しつつ、今し方まで疾風が着ていたそれに袖を通す。
大きくてまっすぐ伸ばしても手は出ない、裾も長くてちょっとしたワンピースみたいだ。急いでファスナーを上げようとした琥珀の手は、しかしそのまま止められた。
パーカーを身につけた琥珀を上から下まで見て、疾風はひとつ頷いた。すでに暗闇に慣れた目には琥珀の姿がよく映っているようだ。
「一応、隠れるかな」
「…なに…っぅん」
暗いから、伸びてくる手に気づかなかった。
背中にするりと手が回されて、そのまま抱き寄せられる。疑問を口にする前に塞がれた唇にはすぐに舌が忍び込んできた。
反射的に目をつむってしまうが、すぐに気づいて体を離そうと手に力を入れる。けれど、一度この力強い腕に囚われると、琥珀一人の力では逃げ出すことは不可能だ。疾風の気が済むまで蹂躙されるしかない。
経験上分かってはいるが、それでも少しの期待を込めて抵抗を試みる。
「…ふうん」
唇が離れた一瞬で、疾風が何か言いたげに鼻を鳴らした。
その時には既に琥珀の体からは力が抜けて、疾風に支えられてようやく立っているような状態だったが、疾風の目の奥が剣呑に光るのが確かに見えた。
「っだめ…」
「なにが?」
とぼけた様子でそう言い、疾風の手が琥珀の首から臍まで体の線をなぞる。ゆっくりと煽るような手に思わず声が出そうになって、琥珀は慌てて口を手で覆った。
「大丈夫、誰もいない。 …もし誰か来たとしても、遠慮してくれるだろうし」
そういう問題じゃないような。
疾風の声を聞いていると、闇の中で悪魔が囁いている錯覚に陥る。
けれど、口を塞いだまま首を振るのが琥珀は精一杯抵抗した。だが疾風は既にその気らしく、その様子を楽しそうに見ているだけだ。
「…ならこれは?」
駄々をこねる子どもをあやすように優しく言われ、パサっとパーカーについているフードが頭に被さる。これも男物らしく、視界の半分ほどが隠れてしまった。
だからこういう問題ではない。もっと根本的に…
「や……ここ…は…」
「その内、気にならなくなるから」
ごつごつした岩肌に背中が当たらないようにと、疾風の手が背中に回されて少し抱え込まれる。
うつむき加減の琥珀の顔を覗き込んで、至近距離で疾風が嬉しそうに笑った。
「動けるか?」
「…う、ん」
声を掛けられたのは、壁にもたれ掛かる疾風の足に座りどれくらい経った頃だろうか。ぼんやりとした意識のまま返事をするが、嘘だ。体中どこにも力が入らない。
「そろそろ戻らないとみんな心配する」
「………ん」
返事をするのも億劫で、疾風の胸にもたれたまま小さく呟く。
琥珀の気持ちを無視して、しかもわざと琥珀の体力を消耗するような抱き方をした疾風に少し腹が立つが。
怒る気になれないのは、琥珀を抱きしめながら慈しむような手で頭を撫でられているから。
それと終わった後に連れてこられた洞窟の奥、ぽかりと空いた穴から見える夕日があまりにも綺麗だったからだ。
景色がよく見えるところに座って、青い空が少しずつ色を変えて、紅く染まっていく様を二人でただじっと眺めていた。今は疾風の眼と同じ藍色の空に変わって、星が瞬いている。
潮を含んだ風に煽られて揺れる琥珀の髪は、疾風が適当に三つ編みにしていた。長い時間、会話をするでもなく、けれど相手が傍にいる安心感はとても心地よかった。
「ここ、地元の人しか知らない、絶景が見える場所。 折角来たんだし、連れてこようと思ってた」
「……きれい、だった」
「姫君に喜んでもらえたなら、なにより」
「でも……」
「…――――――あー、うん、…ごめん」
琥珀が何を言いたいのかよく分かっているので、疾風は全て言われる前に謝った。
「海は二人きりでな。 誰もいないところだったら、俺も琥珀の水着を堪能できる」
「………」
こくり、と頷いて琥珀はそのまま眠りの世界に引き込まれた。かろうじて保っていた意識も、素晴らしい自然のショーが終わってしまえば、もうつなぎ止めるのも限界だった。
「…おやすみ」
ふっと息を吐く音と一緒に聞こえてきた疾風の言葉と、体を抱え上げられた感覚を最後に琥珀は完全に夢の世界に落ちていった。
…本当は私も、浜辺で疾風さまを見る女の人の視線がすごく嫌だった、なんて。
私のだよ、って独占したかったって。
言ったらどんな顔をされるだろうか。
おそまつさまでした。