BATHTIME LOVER1






   その日、疾風はいつもよりも疲れて部屋に帰ってきた。

 仕事が忙しいのはいつものことだが、今日は通常の仕事に加えて統括している地区
内の有力者と会合があったのだ。

 裏通りの怪しい店で昼近くから、妖艶な店員に迫られつつ、得体の知れない酒を浴び
るように飲んできた。これがアンダーリバーでいう普通の会合だ。

 底のないザルと言われる疾風も、さすがに酔っていた。

 頭が燃えるように熱くて、ドクドクと血液の流れる感じが止め処なく続いており、視界も
ぐらつき、支えなしでは歩けないくらい足取りもおぼつかない。

 そんな状態でも無理に帰ってきたのには理由があった。

 あのようなところで一晩明かせば―――― うっかり、翌朝同じベッドに裸の女が三人
転がっている、などという事態も起きかねない。

 固定客が欲しい店の差し金で、手段としては無法地帯においてそう珍しいことでもなかっ
た。

 疾風としては、琥珀以外の女を抱く気はないので、会合が終わったのを見計らって退散
したのである。

 彼以外の参加者はほとんど店で酔い潰れているのだが、知ったことではない。


「…明日は、二日酔いだな…」


 下の階で水を大量に飲んできたのだが、足取りのおぼつかなさは変わらない。

 どうにか部屋に戻って、ドアを閉めたところで大きくあくびが出た。
 そして、顔を上げたとき。

 ドアから入った突き当たりの窓から見える、中空に浮かぶ月の姿が見えた。雲も少なく、
濃紺の空には星が数え切れないほど瞬き、地上は正反対に深い闇の中に落ちていた。

 その美しい月の姿と淡い月光に、奥の部屋で寝ているはずの少女の姿を重ねる。

(………いや、さすがに病み上がりは…)

 心の中に芽生えた邪な考えに、すぐさま首を振る。それに、もう日付が変わっている時
刻だ。これだけ部屋の中がシンとしているなら、彼女はもう寝ているだろう。

 もう一度、あくびが出た。

 廊下に続く書斎には、机と本棚、ソファがあるだけだ。

 その、革張りのソファを見たとたんに疾風は引き寄せられるように近づき、どさっとその
上に倒れた。

「……駄目だ。寝る」

 誰に言うでもなく呟いて、疾風は服もそのままに眼を瞑った。









「っくしゅん」

 小さくくしゃみをして、琥珀は眼を覚ました。

 ぼーっとする頭で周りを見回す。月明かりが入ってくる部屋の中は、何とか物の形が見
えるくらいの暗さで覆われていた。

 眠い眼を擦って、傍らの時計を取る。月明かりでなんとか針が見えた。

 時刻は2時を過ぎる頃。涼しい風の入ってくる窓から鳥の声が聞こえた。

「お風呂…入ろう、かな」

 着ているネグリジェの胸元を摘んで引っ張る。服が汗を吸って、着心地が悪くなっていた。

 ここ数日熱を出して寝込んでいたので、汗を大量にかいたせいだ。
 それが夜風で冷えて、少し寒い。

 そっと、ベッドを含めた部屋の中を見回す。

 疾風は今日帰るのが遅くなると言っていた。寝込んでいるのに申し訳なさそうだったが、
抜けられない会合があるらしい。

 ベッドの上で少し迷う。

 汗がべたついているので、今すぐにシャワーだけでも浴びたいが、もしすぐに疾風が帰
ってくるなら話は別だ。

 ペットである琥珀の仕事は、『疾風を出迎える』ことにあるのだから。

(…様子を、見よう)

 もうすでに廊下まで来ているかもしれない。

 そう考えて、琥珀は立ち上がった。熱と体力不足のため少し眩暈がしたが、気合を入れ
て寝室と書斎を繋ぐ廊下を進む。

 そして疾風の書斎に入った瞬間、ソファから長い足がはみ出しているのを見て琥珀は
驚いて動きを止めた。

 しかし、すぐにそれが疾風だと気づき、琥珀はゆっくりとソファに近づいた。
 背もたれのほうから覗き込めば、やはり思ったとおり黒髪に端正な顔立ちの青年がそ
こにいた。

「疾風…さま……?」

 寝室に来る前に力尽きたのだろうか、マントもつけたままで、疾風は少し眉をしかめて
眠っている。

(風邪、ひいちゃう、よね)

 春になったとはいえ、まだ夜は薄寒い。

 琥珀はそっとソファから離れて、寝室から毛布を取ってきた。毛布は大きくて長いので、
すそを引きずりながら、どうにか疾風にかける。

 それから、膝をついて彼の顔を覗き込んだ。


 少し日焼けした肌にさらさらの黒髪、眼を閉じている顔も精悍という言葉がぴったりと似
合う。
 けれどもしこの寝顔を百人の女性に見せたら、きっと全員「可愛い」というに違いない。

「あ、そだ…枕…」

 さらに寝室から取ってこようと立ち上がったとき、すばやく大きな手が伸びてきた。

 え、と思う間もなく腕を引かれ、琥珀はバランスを崩して疾風の上に倒れこむ。

「きゃ…っ、…っ?」

 起きたのかと顔を見るが、まだ疾風は目を瞑ったままだった。
 寝息も聞こえるし、それ以上動く気配がない。

「…えと…?」

 仰向けになった疾風の胸のところに乗せた琥珀の頭を、大きな手がゆっくりと撫でる。
そして幼い子供にするように、背中を優しく叩いてくれた。

 それまで緊張していた琥珀だったが、大きな手が背中をさする気持ちよさにとろとろと
また睡魔が襲ってきた。

 しかし、そこで僅かに鼻をくすぐった匂いに、琥珀は思わず身体を起こした。

「………お酒…」

 鼻をつくのは強いお酒の匂い。会合といっていたので、また大量に飲んできたのだろう。

 しかし、琥珀はお酒の匂いに僅かに混じる違う香りに気づき、顔を曇らせた。

 ちくりと胸が痛んで、心によぎった考えを振り払おうと頭を振った。

 そのまま、のそのそと動いて疾風の手から逃れ、琥珀は床に膝をついて疾風の頬を軽
く叩いた。

「疾風、さま。 あのね、お風呂、入ってい、い?」

「…ん――……」

 小さな声に、疾風がほんの少しだけ眼を開ける。藍色の瞳が僅かに覗いて、焦点の合
わない視線が宙をしばらく彷徨った。どうやら相当酔っているらしい。

「風呂…?」

 仰向けのまま、鸚鵡返しのような言葉が疾風の唇からこぼれた。

 コクコクと何度か琥珀が頷くと、視線がこちらを向く。

 意図しているのか無意識か、疾風の視線は心の底まで射抜くような鋭さがある。何事
に対しても自信が無くて、びくびくしている琥珀は、その視線にどうしても慣れることがで
きなかった。

「…具合はいいのか?」

 唇が動いて、少し擦れた声が響く。

 大きな手が伸びてきて、頬に触れた。
 冷たさが気持ちよくて、もう少し触れてもらいたくて、琥珀は首を少し傾けた。

「う、ん。 だいじょ…」

「そうか」

 琥珀が全部言い終わる前に、疾風が立ち上がる。

 え、と思う間もなく腰に手が当たって、ぐるっと視界が回転する。

 床が頭の上にあることに気づいてから、ようやく疾風に小脇に抱えられていることに気
づいた。

「は、やて…さま?」

 ぷらん、と手荷物状態で運ばれながら、琥珀は疾風を見上げた。
 疾風はまだぼんやりした眼で琥珀を見下ろし、頭をかいた。

「入るんだろ、風呂」

「……う、ん」

 なにか、嫌な予感がひしひしとしつつ琥珀が答える。その間に、疾風の部屋に備え付け
てある風呂場に到着した。





 












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