I'm Angry!






   「……だから落ち着けって、……は? おい、何言っ……くそ、切りやがった!!」

 ガチャン!!という大きな音が寝室に響き、夢現でまどろんでいた琥珀は急激に眼を覚
ました。

 寝ぼけ眼でそっと起き上がる。見ると、壁際に置かれたテーブルに乗せた電話、それに
疾風が受話器を叩きつけていた。

 そのまま見ていると彼は、はあっと大きくため息をついて持っているタバコを一口吸った。

 そして振り返った疾風と琥珀の目が合う。

「……ああ、起こしたか」

 まだ寝癖のついた頭を乱暴に掻いて、疾風はタバコを灰皿に押し付けた。ふわりと白い
煙が浮き上がって、そのまま霧散してしまう。

「どう、か…した?」

「いや、別に」

 疾風は不安げに見上げる琥珀色の目に、軽く笑いかけた。
 一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、彼はベッドに腰掛けた。

 仕事ではなく、知人からの電話だった。

 曰く、夫婦喧嘩をしたらしい。それで今まで延々と喧嘩の内容やお互いの言い分や、愚
痴や惚気を聞かされていたのだ。

 しかも言うだけいって一方的に切ってしまったのだから、なおさら性質が悪い。

(夫婦喧嘩は犬も食わないって本当だな…)

 小1時間のやり取りを思い出してぐったりしていると、琥珀がベッドの上を移動して近寄っ
てきた。

 軽く壁を感じる三十pほどの距離を残して、彼女はちょこんとそこに座った。

 心配そうな瞳で見上げる彼女を見て、疾風はサイドテーブルの時計に目を走らせた。

 針はまだ五時を少し回ったところ。

 窓の外はまだ夜の気配が残り、藍色の空には宵の終わりの月が残っていた。

 そもそもこんな時間から電話をしてくる方が間違っているのだ。昔馴染みだからと言っ
て、簡単に寝室まで電話を回してくる電話番も恨めしい。が。

(…まあ、折角だし)

「はや、…っん…!?」

 細い二の腕を掴んで、自分の名前を呼ぼうとするその小さな唇を塞いだ。
 咄嗟に逃げようとする舌を捕まえて、唾液を絡ませる。

「…っふ、……や、あ…っ」

 しかし、何故か琥珀はいつもより身を固くして流されまいとしていた。必死に腕を突っぱ
ねて、体を離そうとしているのを見て、疾風は琥珀をベッドに押し倒した。

「…は、疾風、さま……?」

「折角こんな時間に起きたんだ、二度寝するにはもったいないだろう?」

 戸惑った声を上げる琥珀に顔を近づけて、疾風は至近距離でにっこりと笑う。

 キスの余韻で涙目の琥珀は、一瞬言葉に詰まった後、何故かふるふると必死で首を振っ
た。

「あのねっ、…今日は、市場に……っ」


 琥珀がしまった、と息を飲んだ気づいた時にはもう遅かった。

 自分の失言に目を見開いた琥珀を見下ろす疾風の顔から、からかいの色が一瞬にして
消える。

「……何の話だ?」

 冷たい声と共に、手を掴む力が強くなった。
 口を噤んで顔を背けた琥珀の顎を掴んで、疾風は無理やり自分の方を向かせた。

「ち、がっ…あの……」

「そうか、今日は市の日か。で? 市がどうしたって?」

 アンダーリバーでは、二週間に一度定期的に市が行われていた。

 そこでは珍品や名品など数々の品物が取り扱われ、世界中の動物や食べ物、行商人
やたくさんの食べ物屋が立ち並ぶ。

 もちろん、アンダーリバーらしく、犯罪の品物も取引きされるのが常であった。

「首謀者はどうせ鴉だろう。 折角市があるから、見に行こうって話になって? でも、俺
に言うと反対されるから内緒で計画していた、と」

 疾風の質問に、泣きそうな顔で首を振った琥珀を見ながら、疾風は眉一つ動かさずに
言った。

 一言もしゃべっていないのに、まさしく的中して、琥珀は目をしばたたせた。

「疾風さま、って、エスパー?」

「言い当てられても、違うって顔しなきゃ黙っていた意味がないぞ。 …そうか、鴉が…」

 ポーカーフェイスの苦手な琥珀にそう忠告して、疾風は舌打ちした。

「行っちゃ…ダメ? 市場…見てみ、たい…」

 疾風の体の下から、琥珀色の瞳が見上げてくる。

 昨日の情事の痕が、着ているブカブカなシャツの襟元から覗き、なんとも艶かしい。

「…わかった。 まあ、鴉がいれば多少の事は大丈夫だろう」

 そういいながら、疾風は琥珀の首元に口付けをした。

「っん…」

 疾風の大きな手が、シャツ越しに何もつけていない琥珀の胸に触れる。と思ったら、シャ
ツの前のボタンがあっさり外されてしまった。

「ま、って……ふっ」

「ん? どうした?」

 鎖骨のあたりに口付けをしつつ、何気ないように疾風が言う。

 まだ小さな双丘に軽く触れられて、体を震わせた琥珀は必死に体を起こして、疾風から
離れた。

琥珀はぎゅっとシャツの前を握り締めて、疾風を見る。

「ここのところ、毎日…で…」

 仕事が一段楽した疾風は、最近毎晩のように琥珀を抱いていた。

 華奢な琥珀はそれこそ、ベッドの上から起きられないほど疲労しているのだ。今もギリ
ギリの体力だ。いくら許可が出ても、抱かれたらきっと市にはいけない。

「……そうか」

 疾風は気を削がれて起き上がった。

 琥珀は慌ててシーツを引き寄せて自分の体を隠すと、じっと困ったように疾風を見上げ
た。けれど、疾風は一度も彼女のほうを見ず、無言で上着を羽織ると、ぼさぼさな頭のま
ま立ち上がった。

 疾風の機嫌を損ねてしまったようだ。てっきり押し切られると思っていた琥珀は、急に温
もりが無くなった事に戸惑い、慌ててその背中に声をかけた。

「あっ…あの、…」

「眠気も失せたし、ちょっと早いけど仕事する。 琥珀は寝てろよ」

 伸びをしつつ遠ざかる背中に、琥珀の心臓が早鐘を打つ。
 そして一度ぎゅっと眼を瞑って小さい声で呟いた。

「待っ…て、い、行かない…で」

 疾風がその微かな声に反応して足を止めた。

 そのままベッドにゆっくり戻って、俯いている琥珀の隣に座る。

「ま、まだ、時間…ある、でしょ…?」

 自分でもどうして疾風を引きとめようとしているのか分からないまま、必死に言葉を搾り
出して顔を上げた琥珀の前には。



 にやにやと意地悪そうに笑う疾風がいた。



 驚いて、眼を見開いて固まった琥珀の髪を一房取って、疾風はそれに口付けする。

「……素直で可愛いな、琥珀は」

 まだどういう状況下なのか頭が付いていかない琥珀に、疾風がにじり寄った。

 本能的に、琥珀は体を後ろへ下げる。

「そうだな、時間があるから…」

 ベッドの端に背中が当たった。疾風はわざとゆっくりと壁に手を付き、琥珀を腕の中に
閉じ込めた。

「…っ、だまし…っ」

 まんまと術中にはまった琥珀が、抗議しようとした口がもう一度ふさがれる。

「騙したっていうのは、人聞きが悪い。 押してだめなら引いてみろ―――ってな」

 ゆっくりと口を離した疾風は、そのまま琥珀の額にもキスを落として、見惚れるほど綺麗
に笑った。







 朝、花梨がいつも通りの時間に寝室を訪れると、琥珀はベッドの中でまだ眠っていた。

「琥珀様、起きてください。 市に行く時間ですよ〜」

 軽く揺さぶるも、小さな寝息にはなんの変化も起きなかった。

(…う〜ん、これは…)

 昨日まであんなに楽しみにしていたのだから、起こさないと後で大変なことになるかもし
れない。

 さてどうしようかと腕を組んだ花梨の目に、サイドテーブルの上に置かれた手紙がうつっ
た。

 書いているのは簡素に、『寝かせておいてくれ』とだけ。

(…――――つ、疲れてる、んですね…)

 言い知れぬ何かを感じ取り、花梨は起こすのを諦めた。きっと、本能的な体力回復のための
深い眠りなのだろう。

 花梨は布団を丁寧にかけ直し、ぐっすり眠れるように眩しい朝陽の入る窓のカーテンを
閉めた。

 できるだけ部屋の中を暗くして、寝室のドアを開ける。

「おやすみなさい」

 小さく呟いて、花梨は部屋から出て行った。









 その日から数日が経ったが、琥珀はとっても不機嫌だった。

 どれくらい不機嫌かといえば―――疾風と会うときは四六時中頬を膨らませているくら
い。

 そんなものか、と言うような者は幹部の中にはいない。

 平常の彼女が、どれだけ表情の変化に乏しいか、よく知っていればなおさら。

「…琥珀」

「………………」

 今は疾風の寝室。

 ベッドの上に座っている琥珀は、今日も花梨と鴉の見立てた可愛いネグリジェを着てい
た。

 白い透けるような肌に映える、細かなレースのついた白いキャミソールだ。

 裾の膨らんだ短いパンツは太ももまでしか長さがなく、すらりと素足が伸びている。

 いい匂いのする柔らかい髪は肩にかかり、背中に流れたものは金色に光って。


 疾風としては、今すぐにでも触れたいと思っている。

 が。

 頬を膨らませて恨みがましい目で見上げ、彼女なりに精一杯威嚇しているのだから、容
易に近づけなかった。

「本当にすみませんデシタ。 反省してイマス」

「………」

 プイッと顔を反らせて琥珀はクッションを抱きしめた。

「だ、めっ、怒ってる、のっ!」

 言わずもがな、市場にいけなかったことが原因で琥珀が怒った。それでしばらく抱くこと
はもちろん、触れるのも禁止となったのだ。

 すでに三日ベッドを共にしているのに、その条件は撤廃されることもなく。

 目の前に餌をぶら下げられて、おあずけを食らわせられる犬というのはこんな気分だろ
うなあ、と疾風はしみじみ思う。

「琥珀ちゃん、俺そろそろ無理やり押し倒そうかと思っているんだけど?」

「私も、一週間、我慢してた、ん、だもんっ」

「…それは、本当にごめんなさい…」

 指折り数えて待っているところが容易に想像できて、疾風はがっくりと肩を落とした。押
し倒すことなど簡単だが、さらに火に油を注いでは元も子もないのだ。

 しかし、あの一件の所為でこんなに辛い数日を過ごす羽目になるとは、全くの予想外だ
った。

 意思表示ができるようになっているのは嬉しいが、少し困る。もちろん本人の意思を無
視して抱く、なんていう事は駄目なのは分かっているのだが。

 彼女の気持ちを優先するか、それとも自分の本能に忠実になるか―――。

 男にとっては、結構重大な選択だ。



 試しに、琥珀の肩にかかる髪に手を伸ばしてみた。
 すると琥珀はキッと疾風を見上げて、持っていたクッションでその手をポフポフと叩いた。

 ―――――殺傷力ゼロで痛くもかゆくもない。


 が、とりあえず手を引っ込める。

 するとまたクッションを前抱きにして、ぷいっと横を向いてしまった。

「…わかった」

 根負けして、疾風はぽつりと呟いた。

「明日市街地に出掛ける用事があるから、一緒に行こう」

「えっ…」

 軽くため息をつきながら言った疾風の言葉に、今までそっぽを向いていた琥珀がぱっ
と振り向いた。とても分かりやすい変化で、琥珀の顔が明るくなっている。

「エルエだけど、いいか?」

 エルエとは貴族たちの住んでいる首都の一角だ。

 ここ数年まともに外に出た事のない琥珀は、急いで頷いた。その顔が可愛くて、疾風は
もう一度手を伸ばしてみた。

 しかし、残念ながら、琥珀はまた恨みがましい目でじりじりとベッドの上を後退してしまう。

「今日、は駄目っ、なの!!!」

 恨みは相当根深いらしい。

 今日も眠れないとわかって疾風はがっくりと脱力して溜め息をついた。

















inserted by FC2 system