一方、琥珀は廊下の一角にある物置の中で、膝を抱えてぐずぐず泣いていた。 物置には灯りがないので、ドアは開けたままだ。まあ上の階なので通る人はほぼ皆無だから、見られる心配も少ないだろう。 傍らには鴉がいて、延々泣き続けている彼女の背中を撫でさすっている。 「……、どうし、よう…っ、私、…嫌われ…っ」 「はいはい、泣かないの。 あんな可愛く『嫌い』って言われたくらいで、花梨がそんなこと思うわけないでしょ」 「でも、…っ」 「むしろ琥珀ちゃんのこと心配してたわよ」 途中からとはいえ、喧嘩のようなもの、の様子を見た鴉が正直に言う。けれども鴉の慰めにも応じずに、琥珀は額を膝につけたままブンブンと首を振った。 「鴉、さん…にも、迷惑……」 「可愛く縮こまってる琥珀ちゃんが見られて、私は幸せ」 「………疾風さま、にも………っ、ワガママ、って、思わ…っれた…」 「あ〜〜〜……、いやでもたきつけたのは私だし」 嫌い発言よりも疾風さまに頼んだという事の方が、ということはさすがに黙っていた。 今の状態でそれを気づかせてしまうと、琥珀がさらに取り乱すだろうから。 あの後、逃げた琥珀は、即座に疾風に捕まっていた。 けれど泣いている理由は頑として言わず、追いついた鴉がどうしようかと思っていたところで思いついたのが、一生のお願い。 『人生に一度のお願いならいいでしょ』 と言って、疾風に花梨を説得してもらったのだ。 ちなみに、何を説得するのかということについては、結局琥珀は口を開かなかった。だから鴉もまだよく分からない。 ふう、と鴉は息を吐いて、縮こまっている琥珀をそのまま抱きしめた。抱きしめられた琥珀はビクッと体が震わせたが、鴉は構わずにそのまま頭を撫でた。 冬のこの時期、廊下も物置もひんやりと冷気が漂っている。 そろそろ温かい場所に移動しないと、華奢な彼女は風邪を引いてしまうだろう。 「……あんたはもっとワガママでいいんだよ? 子どもなんだから」 ゆっくりと言えば、少しだけしゃくり上げる音が小さくなった気がした。 「子どものワガママを、受け止めたり、それは駄目って言うのが大人の役目。全部言ってしまえばいいの。 言う前から諦めるのが一番、お互いにとってよくないと思うんだけどな」 「………………、でも、ワガママ……、だめ……で」 「いいワガママもあるの。 そもそもこっちも完璧じゃないんだから、琥珀ちゃんが言ってくれなきゃ分からないこともあるんだからね」 「…………う、ん…」 「琥珀ちゃんといい花梨といい、仕方ないかもしれないけど気を遣いすぎだね。 ここじゃワガママ言って主張しないと、相手に流されてとんでもない方向行っちゃうからね。 だから、その調子でもっともっと自分の気持ちに正直になりなさい」 「……うん…」 「よし、じゃあ今思ってるワガママ言って。 で、泣きやみなさい」 「………………」 ぽん、と少し強く背中を叩くと、琥珀はようやく顔を上げた。眦が痛々しいほど紅くなっていて、瞬きするたびに涙の粒が頬を流れていく。 可愛い子は泣いても可愛いんだなと、鴉は心の中で頷いた。 「………いい、の?」 「出来ることと出来ないことはあるわよ。 放っておいてとかね」 琥珀はフルフルと首を振って、じっと鴉を見上げた。 「あの、ね……」 ぼそぼそと小声で囁かれたワガママに、鴉はきょとんとした顔をして―――――すぐに破顔した。 「もっちろん、いいに決まってるじゃないっ!!!」 いつも以上のいい笑顔で、鴉は思い切り琥珀を抱きしめた。 ギュってしていい?などと言われたら、それはもう、叶えてあげるしかないだろう。 「ちょっ…マジ可愛すぎるわ、なにこれなにこの胸の高鳴りは!!」 「苦し…」 「愛のムチだから我慢して!」 「……ん…」 しばらくそのままギューッと抱きしめられた後、鴉はパッと離れた。 「どう? 落ち着いた?」 肩を掴まれた状態で聞かれ、琥珀は頷いた。 まだ眼は濡れてはいるが、涙は止まったようだ。 それを確認して、じゃあ帰ろうか、と歩き出した鴉の背中にしがみついて、琥珀はお礼を言った。 「……鴉、さん、てお母さん、みたい……」 呟かれた言葉に鴉が苦笑する。ここで年齢の話は野暮かと、喉まででかかった言葉を飲み込む。 振り返ると、キラキラした眼が見上げていた。向けられる純粋な信頼が照れくさくて。 鴉は体を反転させて、もう一度琥珀を抱きしめた。 「そう? まあ疾風さまが頼りない時は、いつでも言っていいからね」 食堂に戻って疾風から詳しい話を聞いた琥珀が、花梨と仲直りできたのは夜のこと。 ちなみにお試し期間、なのに花梨は既に体力の限界、魂が半分出て行きかけている有様だった。 一体なんの修行をしたのかは、教えてくれなかった。 その日は朝から空一面に暗雲が立ちこめ、昼過ぎからは叩きつけるような猛吹雪になった。 外に出れば容赦なく雪が吹きつけ、積もった雪で馬車はもちろん歩くことすら困難な状況は数時間続き、人通りは完全に途絶えた。 けれども荒れた天気は夕方にはピタリとおさまり、夜にかけて厚かった雲が少しずつ千切れて西に流れて。 夜半には雲など見あたらない、澄んだ星空が広がった。 喉の渇きで琥珀が起きたのは、そんな頃。 窓の外には、朝の景色とはまた違う、静かで幻想的な風景があった。 「……そろそろ、飽きないか?」 そう疾風から言われて、後ろからカーディガンを掛けられるまで、琥珀はずっと外を眺めていた。 「ご、ごめん…な…さい……」 「いや。 まあ、雪の夜は綺麗だしな」 「…えと………」 琥珀が窓の外をちらりと見て、口を開いたのと、疾風が手で欠伸を隠したのは同時だった。 外に出られなかった分、溜まっていた仕事を片づけてきた、と夜遅く帰ってぼやいていたのを琥珀は思い出した。 「ん?」 「…ううん、…なんでも……」 明日もきっと早いだろうし、と口を噤みかけて、鴉に言われたことを思い出す。 ――――――自分の気持ちに正直になりさい! ここで大人しく眠るのが、きっと一番いい子だと思う。それにこの間、散々怒られたばかりではないか。 面倒だと呆れられたらどうしようとか、嫌われたらとか、いろいろなことが頭をよぎった。 けれど、雪は明日になったら消えてしまう。次に積もるのはいつになるのかわからない。 みんなと遊べて、とても大切な思い出が出来たのだ。 だから、一番大切な人とも…なんて、都合がよすぎるだろうか。 「……あの、ね」 「うん」 「……私、疾風さま、と…………………一緒に、雪、……遊び、 ……」 その辺りで自信がなくなって、琥珀の声が小さく萎んでいく。 疾風の沈黙を否ととった琥珀は、慌てて首を振った。 「ごめん、なさい。 疲れてる、のに…」 ぽん、と頭の上に手が乗せられる。 それだけなのに、琥珀は心が軽くなるのを感じた。 「…え?」 「外は冷えるぞ。 思いっきり着込めよ」 顔を上げれば、疾風はすでに背を向けていた。その足の先にはクローゼット。 扉を開けて、中身を物色していた疾風は、適当にベッドの上に服を投げやった。遅れてその意味に気づいて、琥珀は眼を見開いた後、慌ててその手伝いに駆け寄った。 月明かりと星明かり、街灯ランプ、建物の外壁に取り付けられた灯。そんなものが光源の、中庭。 か細い光に当てられて、雪は陰影を濃く描き出している。中庭の奥の木が茂っている辺りは暗闇で、藍色の空を背景にした黒い切り絵のようだ。 まず先に外に走り出た琥珀が、雪を掬って宙に放り投げる。それは、銀のように輝いて、まだまっさらな雪の上に落ちていった。 「とりあえず…」 「ふわっ!?」 嬉しそうに周りを見ていた琥珀に、厚手のコートを着た疾風が雪玉を投げる。被っているフード越しに不意打ちを感じ、琥珀が振り返った。 にっと口の端を持ち上げて、疾風がその足元にもう一つ投げる。 余裕の彼を見て膨れた琥珀が、半分崩れたそれを投げ返すが、疾風はひょいと軽く避けてしまった。その間にもう一個作っていた雪玉を、疾風が琥珀に当てる。 「………」 「悪い悪い。 雪合戦じゃちょっと差がつきすぎるか」 笑った疾風は琥珀のフードから雪を払う。ちなみにそのフードにはウサギの耳がついていた。その耳を上に引っ張って遊んでいた疾風は、何かを思いついたようだ。 「葉っぱと…赤い実、どっかにあるかな…」 茂みの方に視線を向けた疾風を見て、琥珀が手を挙げた。 「私、とって、くる」 返事をする間もなく、たたっとかけ足で琥珀はそちらへ駆け寄った。 林と呼んでも差し支えないくらいの木々と、手入れされた植え込みや春になれば色とりどりの花が咲く場所。 葉っぱはたくさんあるが、実はと周りを見回した琥珀は、少し奥にある低い立木にある紅い色を見つけた。 分け入って小さな実に手を伸ばしたとき。 ―――――――――――― カシャ、 小さく、音がした。 顔を上げて周りを見るが、暗い林には何の姿も見えない。微かな光しか届かないことに今更ながら怖くなり、慌てて琥珀は実の沢山ついた枝をとって、疾風の所まで戻った。 「どうした?」 「うう、ん…、暗い、から…」 慌てた様子で帰ってきた琥珀に、疾風が聞く。琥珀は首を振って枝を差し出した。 疾風は今の間に作った楕円形の雪のかたまりに、小さな実と同じく枝についていた葉っぱをつけた。 できたのは小さなウサギ。 「可愛、い」 「雪兎だな。 作ってみるか?」 「うんっ」 疾風の作ったものよりも多めに雪をかき集めている琥珀を見ていた疾風は、ふと顔を上げた。 冷たい風が吹き抜けて奥の林を揺らし、ザワザワと葉や枝同士がこすれる音が聞こえてくる。 そのままその方角を見ていた疾風は、ほんの少し眉をひそめた。 |