大きくため息をついて、楓はその階に足を踏み入れた。慣れない新しい制服の首元に指を入れ、息苦しさをどうにかやり過ごそうとする。 それでも心臓は怖いくらい脈打ってるし、冷や汗と胃痛が半端なく襲いかかってきて、もうどうしようもない状態である。 「なんで俺ここにいるんだよ……」 断る事を許されない、強制的な配属替えがあったのはつい先日。 同僚も上司も白目をむいて驚いていた。だって下っ端の門番が、幹部クラスの警備に当てられるなんて誰が思うだろうか。 仲間達は不思議がったが、楓は間違いなく原因が分かっっていた。というか、それ以外に理由が思い当たらない。 しかし、思い出すのはぶち切れた組織のボス、疾風の顔と声、そして容赦の無い制裁だけである。 痛いなんてもんじゃない。いや紛れもなく痛かったが。 内臓をえぐられて、しばらくいろんなところから血が止まらなかった。はっきりいって死んだ方がマシだと百回は思った。 「………つーか、あんだけ強いなら警備いらねーだろ」 あの痛みを思い出して再び脂汗が流れる。できれば、疾風には一生視界の端にも入れられずに、仕事していたいと思っていたのに。 何故自分はここにいる。 考え事をしていたせいで、気づくのが遅れた。 不意に曲がり角から出てきた人影が、楓という障害物にぶつかって、そのまま後ろ向きにバランスを崩した。 「わ」 「だいじょ………っ」 咄嗟に差し出した楓の手が、止まる。助ける手がないまま、華奢な体が廊下に尻餅をついたのが見えた。 とすん、と廊下に引かれたカーペットの上に座り込む少女が、こちらを見上げる。 窓から入る光で輝く色素の薄い、長い髪。琥珀色の眼。まるで人形のように整った造形は、おそらく一度見たら忘れられないだろう。 間違いなく、疾風の。 少女は目を見開いて、じぃっと楓の顔を見つめながら微動だにしなかった。 (「うおぉおヤッベー! まさか怪我させたとか? いやでもこの場合体触ったらそれはそれで殺されそう……!」) 小心者だと言う事は自覚はある。笑いたければ笑うが良い。 「すみません、大丈夫ですか!?」 膝をついて自分より一回りくらい年下の彼女の様子をうかがえば、ようやく口が開かれた。 「……………………この、間、の」 「そうですそうです。そんで怪我は?!」 彼女は大丈夫、と首を振って立ち上がった。 「…………」 そのままじーーーーーーーっ、と見つめられた楓は居心地が悪そうに一歩下がる。 「……何ですか?」 二人きりのところを誰かに見られたらと思うと、寿命が縮む思いがした。もう疾風の鉄拳はごめんだし、よく分からないけど大出世コースに乗ったその日にクビとか、笑い話でしかない。 これは適当に失礼しますと切り上げた方がいいと。そう告げようとしたところで。 「………良かったぁ……」 琥珀の瞳を蕩かせて、少女がふんわりと笑った。 人形のような雰囲気が、一瞬で女の子に変わって、楓はその次の言葉が言えなくなってしまった。 「なぐったとこ、大丈、夫?」 「えぇ……まあ、はい」 我ながら気の抜けた返事と思いつつ、少女は気にしていないようだった。 「ごめん、なさい。私が、余計なこ、と、したから」 頭を下げられて、ますますどうしたらいいのか分からなくなった。立場が明らかに彼女の方が上なのだから。 (………素直な子なんだなぁ) それが正直な感想だった。 楓は琥珀よりだいぶ年上だ。謝罪することの難しさは、よく知っている。 そうやって率直に来られたら、言う台詞など決まってしまうのに。 「いえ、俺も軽率でしたから。全然謝ることないっすよ」 この子の為だったのなら、あの地獄の苦しみも良しとしよう。うん、もうそう思い込もう。その方が人生楽しいような気がするから。 とはいえ、少女も楓と話をすることで、起こる災害を警戒しているようだ。 きょろきょろとあたりを見回して、注意深くそっと離れた。 「え、と……また、ね」 「ああ、はい。またどっかで会う……」 そこで懐中時計をちらりと見た楓は、顔を引きつらせた。真っ白になった頭より先に動いた手が、去ろうとしている少女の腕を掴む。 「っ!?」 ビクッとあからさまに少女が体を震わせたのに、気づく余裕は楓には無い。 今、十二時五十八分。告げられた仕事の開始時間まで、あと二分。新人が着任早々遅刻をするなど、言語道断。殺される。 「すみませんっ、警備の詰め所ってどこですか!?」 「え?」 反応が鈍い少女にじれて、思わず。 「失礼しますっ」 「え? や、ぁっ」 その体を抱き上げてしまった。 いきなり体が宙に浮いて、びっくりした少女が楓の首にすがりつく。 羽みたいに軽いのに一瞬戸惑うが、もうそれどころではない。 「場所、指さしてくれたらそれで十分ですっ」 「あ、の………あのっ」 「急いでるんで!」 必死さが伝わったのだろう。少女は抱き上げられたまま、来た方向の廊下を、示した。 楓はそのまま廊下を走る。彼女のナビのおかげで、二、三度角を曲がったところで、『詰め所』と看板にある部屋の前に辿り着いた。 「失礼しまーすっ」 飛び込んだのは秒針が十三時を指すほんの少し前。 扉を開けた先には、同じ制服を着た屈強そうな男達がお茶を飲んだり、煙草を吸ったりして、くつろいでいるところ。 交代の時間にはどうやら間に合ったようだ。 と、そこで。 部屋の中の空気が凍り付いていることに気づいた。一番前にいた青年が、口の端からぽろりと煙草を落とすのを見て、なにをそんなに驚いているのかと。 彼の視線を追って、とんでもない事が分かった。 (……やっちまったぁぁぁぁぁぁああぁぁぁっ!!!) 少女を抱えたまま飛び込んだのだ。同じ階で、彼女の存在を警備の者が知らないはずは無い。 しかも抱えられている少女は、真っ赤な顔で目を閉じて、なんか震えてるし。 「お、おま、おまえ……っ」 怯えすら含む警備たちの声に、少女が目を開ける。楓の動きが止まっている間にと、慌てて床に降りた。 ふわりといい匂いが離れて、楓がそちらを向くと。 服の前を握りしめて、涙目で楓を見る少女の姿がそこにあった。 「すみません、これ、は」 楓が近づくと、彼女は怯えたように下がる。 「……っ……さ、触らない、で、くだ……さ……」 ほとんど聞こえないほどの小さな声でそう言った少女は、うー、と唸って涙をこぼすと、そのまま部屋を飛び出していった。 「後で話を、ゆうううっくり聞かせて貰おうか?」 実は部屋の中に居た、眼竜が一番に動く。 鋭い視線を楓に向けて、今日のリーダーに後はよろしくと伝え、眼竜も追って飛び出した。 |